にっき

わが泣くを少女等きかば病犬の月に吠ゆるに似たりといふらむ

2015年01月13日の記事

海の見える町。

むかし

とは言っても、大人になってしまってからのことだが、海の見える町に住んでいたことがある。駅前にこじんまりとしたスーパーがある以外には、ほんとうに何もない町だったが、今でもよく、あの頃のことを思い出す。ぼくの住んでいたところは四階で、ベランダ側には雑木林があって、海から吹き付ける潮風がその枝葉を揺らすのを眺めるのが好きだった。春の明るい空の下、畑に囲まれた道をとぼとぼと歩いて恋人を迎えに行くと、白いワンピース姿の彼女が、花壇の縁石に小さく腰掛けて、今にも泣き出しそうに俯いていたのも、あの頃のことだ。



知らない場所が好きだ。自分を見失えるから。

つい最近のことのような気がするが、もう二年も前、ぼくはやはり知らない町に立っていた。前日の夜に、一度だけ会ったことのある女の子から電話が掛かってきて、そのうちにどちらが言い出したでもなく、ぼくが彼女の家に遊びに行くという話になったのだ。その話題になった時には既に東の空が明るんでいて、二人とも眠くて、夢見心地で、どこかぼんやりとしていたので、一緒に遊ぶという話は、何かすごく楽しい夢の出来事のような気がした。

確かに楽しかったけれど、なぜか具体的なことがまるで思い出せない。一緒に食べたパフェの味や、彼女のあまり可愛くない寝顔は、記憶の彼方で抽象的に霞んでしまい、はっきりと覚えているのは、彼女が出掛けたときのがらんとした部屋の窓から見えた空の色とか、缶コーヒーを買ってくれた自動販売機のうら寂しい照明だとか、そういうものばかりなのだ。

短い同棲ごっこの末に冷たく追い出されてから、ぼくは半日くらい知らない町を歩き続けてみた。見馴れたコンビニと、ガソリンスタンド、信号機も道路標識もいつも目にしていたものと何の変わりもないのに、そこはやはりぼくの全く知らない場所で、ぼくだけが仲間外れにされているみたいに、町はぼくが一切触れずとも、必然性を誇るように正しく回り続けていた。

日暮れに小雨が降ってきて、既に何もかもがどうでもよくなっていたぼくは、公園のベンチに座って雨に濡れていた。ふと思い出して、バッグから彼女が買ってくれた歯ブラシを取り出してみると、その安物の歯ブラシはなんだかすごくセンチメンタルな紫色をしていて、ぼくはすぐにでも死んでしまいたいと感じた。だから、歯ブラシをぬかるんだ地面に突き刺して、自分の墓碑の代わりにした。

そのうち隣の駅に着いたので、現実逃避は諦めて帰ることにした。しかし、切符を買うために路線表を見上げたときに、ぼくは愕然とした。自分がこれからどこへ帰ればいいのか、それがさっぱり解らないのだ。行き先もなければ、帰る場所もなくて、ぼくは完全に自分を見失っていた。ピントが外れるように、世界からみるみると形が失われていった。あの名前も知らない公園で、ぼくの一部は確かに死んでしまったのだ。



もっともっと、むかし、ぼくのすきなひとは、しらないまちに、すんでいた。かのじょのいえは、えきからあるいて、じっぷんほどで、あのころに、なんどもあるいたみちは、いまでもおもいだすたび、なつかしくかんじる。

記憶の中には、彼女もぼくも、もう立ってはいない。同じ夜空の下、小さな星の上、あまり変わらない町並みの中で、ぼくらばかりが、ずっと遠いところへ来てしまったのだ。思い出す景色は、なぜかいつも雪が降っていて、しんしんと、ただしんしんと時間を鎖していくのである。

吐く息の白さも、悲しすぎるばかりではないか。



その日に会ったばかりの女子高生と唇を重ねながら、ぼくは電話ボックスを眺めていた。深夜十一時のうらぶれたローカル駅では、それくらいしか、目に付くものがなかったのだ。自分はどうして、こんなくだらないことをしているのだろう。その帰りに死のうとしたが、上手くいかなかった。

それから数年して、ぼくはあの時に眺めていた電話ボックスに入っていた。記憶の片隅で煌々と黄緑色に照らされているそれが、なんだかとても魅力的な気がして、自宅からは百キロも離れたその場所まで、わざわざ来てみたのだった。電話ボックスに入ったからには、やはり電話をするべきで、ぼくは迷わずあの日の女子高生に電話を掛けた。小銭が全てなくなって、それから携帯電話の電池が切れるまで話し、その帰りに死のうとしたが、上手くいかなかった。



―辛いときは、ちゃんと私がいるからね。

ぼくの腕の中で、そっと彼女が言った。

―君が辛いときには、誰がいるの?

ぼくがきくと、彼女は「かれし」と言って、くすっと笑った。どういう顔をすればいいか解らなくて無言でいたら、数秒の間があってから、彼女は「ごめん」と謝った。

―ねえ、結婚しない?

ぼくが唐突に言ったら、彼女は「幸せにしてくれるならいいよ」と言って微笑んだ。その笑顔があまりに可愛くて、本当に結婚してもいいかなと思ったけど、ぼくでは彼女を幸せにできないし、彼女もそれを解った上で言っているのだろう。

―幸せにできるようになったら迎えに行く。

―うん、期待しないで待ってる。

世界の片隅で、誰にも見つからないように、ひっそりと肌を重ね合わせて、ぼくらの孤独は初めて居場所を見つけられるのだ。 

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