にっき

わが泣くを少女等きかば病犬の月に吠ゆるに似たりといふらむ

2015年01月13日の記事

しろい夢。

ぼくは、眩しい部屋にいた。眩しいのは、天井の一部に穴が開いて、そこから直に陽が差し込んでいるからだ。割れた窓ガラスの向こうには、みずみずしく芽吹いた若葉が見える。ずっと昔に見たことのあるような、小さな部屋だ。もう長い間、人には棄て置かれていたのだろう。壁紙は大きく剥がれ、テーブルの脚の一つは折れてしまい、天井の穴の下には幾らかの草木までが生えていた。

そんな荒れ果てた部屋の片隅には、ピアノが置いてある。年月によって全ての色を奪われてしまった部屋の中で、ピアノだけは、孤独な夜を吸い続けたみたいに、今でもその深い黒を失ってはいなかった。そこには、圧倒的なまでのモノトーン、現実とは隔離された作り物の空気があった。ぼくは、生まれる前から予定されていたみたいに、無意識の内にピアノに向かうと、埃にくすんだ蓋を開けて、白と黒の鍵盤にそっと指を置いた。目を瞑ると、何かに操られるように指が自然に動く。調律の狂い切った調べは、ずっと昔、生まれるよりも遥か以前に、何処かで聞いたことのあるような気がした。

デジャヴュの正体を突き止めようと、目を瞑ったまま自らの演奏するピアノの音色にじっと耳を傾けていると、ふいに88鍵の右端にある最も高いドの音(狂っているのでシに近い)が紛れ込んできた。ふと目を開けて振り向くと、そこにはいつの間にか、白い髪に白い肌、白いロングワンピースという異様な出で立ちの、もう少し具体的に異様さを説明するならば、兎のように赤い瞳と、僅かに赤みを帯びた唇以外には全く色のない少女が立っていた。彼女はぼくには目もくれず、じっと鍵盤を見詰めながら、細い、しかし女の子にしては節のはっきりした長い中指で、いちばん右端の白い鍵盤を、アダージョで二分音符と八分休符を交互というリズムを守って突き続けていた。

何回、間延びしたドを聞いただろうか。百回までは数えていたのだが、そこから先は彼女の瞬きを数えていた。彼女は睫毛にまで色がなくて、それは明るい光を受けて朝日のような金色に輝いていたのだ。そして、百回目のドから数えて1044回目の瞬きの後、彼女は視線は鍵盤に向けたまま唐突に小さな口を開いた。

―もう、弾かないの?

彼女は、その非現実的な姿よりもずっと落ち着いて響く、440Hzの音叉のような声をしていた。

―何を弾いていたっけ?

はぐらかしたわけではなく、本当に自分がさっきまで何を弾いていたのか、思い出すことができなかったのだ。元々、曲名も解らなかったが、今ではそのメロディーすら、夢の記憶のように靄の向こうに霞んでいた。

―それはね……

彼女がぼくの耳元に薄い唇を近付ける。湿った吐息が耳朶を擽って、ぼくは急に暴力的なまでの眠気に襲われた。自分の弾いていた曲の正体を見極めなければと頭では思っているのに、その真相を目の前にして、あと一秒か二秒が堪えられないのだ。瞼が落ちて、視界が、意識が、彼女の声が、全てが黒に溶けていく。身体をピアノに預け、意識を保つことを諦めてしまうと、ずっと遠くで彼女の声が聞こえた。その声は共鳴する音叉のように、いつまでも頭の中で響き続けていた。




ふと気付くと夜になっていた。月のない夜、辺りをピアノと同じ漆黒が包む。酷く寒い、服が濡れているからだ。目は閉じていたが、開けていたとしても何も見えなかっただろう。ぼくは鍵盤に指を置く。しかし、十本の指が再び曲を奏でることはなかった。狂ったピアノの前で、ぼくは小さく狂って項垂れる。夜が明けて、赤に塗れた彼女の姿を見るのが怖かった。このまま夜が明けなければいいのに。鍵盤に激しく両手を叩き付けると、それは絶望の音を響かせて、世界の向こうの病犬がそれに応えて吠え続けた。 

この記事の先頭へ▲

お名前メモする