にっき

わが泣くを少女等きかば病犬の月に吠ゆるに似たりといふらむ

2015年01月13日の記事

あとでちゅーしてあげるから。

あまり活気があるとは言えない商店街のアーケードの下を歩きながら、ぼくは左右の目を交互に開けたり閉じたりしていた。片方の目をこの場で刔り取るならば、どちらのほうが後々で不便が残りにくいかを考えていたのだ。

少し離れた前方には彼女と、その隣には友達だという大学生くらいの男の姿がある。だが、友達にしては肩が触れ合いそうなくらいに距離が近いし、彼女が男のほうを見上げて話す仕種などは、実際はどうあれ、端から見れば誰もが、二人はカップルなのだと認識しただろう。

彼女はぼくのことはすっかり忘れているのか、本当に楽しそうに話をしている。とても間に入れる雰囲気ではないが、後ろからこうして眺めているのもあまり気持ちのいいものではない。だから、逆に二人の前を歩こうと思ったぼくは、早足になって少しずつ距離を詰め、二人を追い抜こうとした。しかし、彼女の横を通り過ぎたとき、急にぐいと腕を引っ張られた。今から思えば本当に子供っぽいが、わざと不機嫌な様子で振り向くと、彼女は顔をぐいと寄せてきて、耳元に「あとでちゅーしてあげるから」と柔らかいトーンで囁いた。

彼女は自分の魅力に絶対の自信を持っていた。だから、キスの一つでぼくの機嫌が直ると、足元を見ていたのだろう。だけど、悔しいことにその通りなのだ。ぼくは、その言葉を聞いた瞬間、こころがぎゅうと握られたような気がした。まるで素晴らしい芸術を目の当たりにしたときのように、身体が芯から温まっていくような不思議な感覚が起きて、その激しい感動に、ぼくは目頭が熱くなるのさえ感じた。

何を考えているのか、彼女はそのままぼくの腕を強く引いて身体を傾けさせ、唇を今にも触れ合いそうなくらいに寄せてきた。目は何かを見据えるように大きく見開かれたままで、その瞳は自信に満ちた色をしている。今から思えば、あのままキスをすれば良かったのだが、その時のぼくは逆に身体を引いてしまった。いや、彼女はぼくがキスをしないことが解っていたからこそ、あんな行動に出たのだろう。やはりばかにされていたのだ。

「あ、なんか逃げちゃった」とぼくが言うと、彼女は面白そうにくすくすと笑った。それがなんだか照れ臭くて「別に怒ってないよ」と余計なことを言うと、彼女は「怒ってるのかと思った」と笑顔で返事をして、そして手をぎゅっと繋いでくれた。指と指を交差させる恋人繋ぎだ。そのまま少し歩いたが、十メートルほどですぐにアーケードが終わったので、彼女は自然に、または計算通りに手を離して、後ろにいた男に向かって子供のようにはしゃいだ声で「おなかすいたね」と言った。

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