タルティーン司令部戦略課室長日誌

ここだけで読める、戦略課の秘話その他。

映画の記事

インターステラー

『インターステラー』(吹替)を観てきました。

 

 

インターステラー
http://wwws.warnerbros.co.jp/interstellar/

 

劇中で明確な年代は明らかにされませんが、数十年後から百数十年後を舞台としたSFになります。
地球の気候が次第に変化し、食物や酸素の減少を招き、宇宙へと植民することが喫緊課題となりつつある時代。しかし前述のように多くの市民にとっては宇宙開拓よりも食料のほうが重大。
主人公のクーパーは、かつてはNASAの宇宙飛行士であり、紆余曲折あって植民星を探すためのチームへと加わることとなり…、というものが大まかなストーリーとなります。

 

ただ、SFとは書きましたが、本作を観た人の多くは、SF映画というものの先入観を大きく覆されることでしょう。何故ならば、ちっとも未来っぽくないからです。服装や家財道具類、クルマ、その他のインフラ。どこを見ても今と変わらないか、むしろややレトロな感じさえ受けるものだからです。
まずこの点を良しとするか悪しとするか、評価が分かれそうな気がします。

 

私は概ね良い評価に傾いています。
過去のSF作品を観ると、時代とともに非現実的に見えたり、明らかに滑稽な描写があるものです。最も如実な例としてはコンピュータに関する描写。例えば197080年代の映画に登場するコンピュータはほぼ間違いなくCUI(文字だけで情報を表示するインターフェース)ですし、グラフィックもワイヤーフレームによるものがせいぜい。
しかし現実の21世紀では、一般家庭のパソコンやゲーム機レベルであってもGUI(グラフィカルに情報を表示するインターフェース)は当たり前。リアルなDCGも可能です。宇宙船に搭載するコンピュータがこれに劣る性能ということは、一般的な認識として有り得ないでしょう。
当時の技術として、かような表現が通常のコンピュータレベルで困難であったのも事実ですが、そもそも一般認識としてリアルなDCGによるコンピュータモニタなどというものが、かえって嘘くさく感じられたという背景もあります。要するに未来を描くSFとは、かような時代とともに現実とのズレが生じてしまう部分があり、避けられません。

 

思い切って“ありがちな未来感”を排除し、今とあまり変わらない情景に留めるほうが、かえってリアリティを生むこともある。多くのSF作品に触れていると、そのように思えてきます。恐らくは本作の監督、クリストファー・ノーランもそうした結論に到ったのかもしれません。

 

 

SF世界観としても異色ですが、それ以外にも全体として描き方、構成、設定、ストーリー、その他諸々、その多くが風変わりです。エンターテインメント性は高いのですが、はっきり言って万人向けとは言い難く、上級者向け作品と思ってそう間違いはないと思います。少なくとも映画慣れ、ないし、SF慣れしていないと、最後まで観ても何のことやら判らないかもしれません。
結構難解な部類に入る映画作品です。

 

ですが、前述のように、映画ファンであれば十分に楽しめる筈だと思います。多くの、既存の作品から影響を受けているであろうシーンが色々と登場しますので、それらのモティーフに気付けるならば、きっと充実した時間を過ごせるでしょう。

 

 

以下、他作品にも触れてネタバレを含みます

 

 

哲学的なSF映画作品と言えば2001年宇宙の旅』(1968年、スタンリー・キューブリック監督)を思い浮かべる人は多いと思いますが、本作もその影響を受けていると思われる場面があらわれます。
ですが、個人的にはチェコのテレビ映画『Nesmluvena setkání』(1994年、イレナ・パヴラスコヴァ監督)の要素を強く感じました。

 

何よりも、主人公たちを呼び寄せる「彼ら」と呼ばれる存在が必ずしも明白にならない点。これは『Nesmluvena setkání』そのまんまです。本作のアメリアの雰囲気が、どことなく『Nesmluvena setkání』マイカに似ていることは、私のその印象によく拍車を掛けるものとなっていました。

 

 

左、『インターステラー』 のアメリア / 右、『Nesmluvena setkání』のマイカ

 

冒頭の、何やら不可解な現象が相次いで発生するという点も、『Nesmluvena setkání』に見られるモティーフです。
『Nesmluvena setkání』では植民候補星である惑星マルカで不思議な事件が相次いで起き、やがて、そもそも自分たちがその星に来たこと自体、“彼ら”の力によって招かれたのだということに気付きます。

 

『Nesmluvena setkání』に於ける“彼ら”の正体は、いわば惑星マルカの意思とも呼べる存在でした。
『インターステラー』では遠回し的に自らが呼んでいたという帰結の仕方をしていますが、しかしそれですべてが納得のできる解決にはなっておらず、なお(劇中の時制に於ける)今なお人智を越えた何者かの力が及んでいる雰囲気を残しています。

 

 

『インターステラー』ラザロ計画には嘘が含まれており、また、マンは孤独な調査ゆえに心を病んでいたとは言え、クーパー達を罠にはめて地球に帰ろうとしました。
このモティーフに、どことなく初代『エイリアン』(1979年、リドリー・スコット監督)のアッシュを感じる方もいる気はしますが、私はここでも矢張り『Nesmluvena setkání』エヴゼンを髣髴します。

 

『エイリアン』アッシュは、その正体はアンドロイドであり、宇宙貨物船の運輸という嘘の裏でエイリアンを捕獲して帰還するという特命を受けていました。この任務遂行のためには手段を選ばず、乗組員の安全は二の次で行動し、そのために被害を拡大させていくことになりました。
『Nesmluvena setkání』エヴゼンは学術的好奇心にかられ、そこで遭遇した野生児ロビーが死ぬであろうことを理解しながらも、惑星マルカの研究をしようとし、同乗クルーだけでなく他船や地球の局員さえも巻き込んで誑かしました。

 

 

調査記録が消されていたり、結局は植民できるような星ではなかったりとか、その理由や伏線は異なるとはいえ、個々のモティーフには類似性を幾つも感じました。

 

 

ところでマーフィーの部屋に現れる幽霊の元ネタって、やはり『ウィザードリィ』ですよね。
その名も、そんまんまMurphy's Ghost。特定の場所にしか現れない上、経験値の塊。

 


 

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6才のボクが、大人になるまで。

久々の映画ブログ
いえ、毎月どころか毎週のように映画は観続けておりまして、新作だけでも劇場鑑賞本数があと作品で90に届くのですが、筆が遠のいておりました。

 

さて、そんな久々に取り上げる映画は昨日観て参りました才のボクが、大人になるまで。』です。

 

6才のボクが、大人になるまで。
http://6sainoboku.jp/

 

物語自体は完全にフィクションなのですが、同一キャストで12年間掛けて撮影を続け完成させた映画で、つまり劇中はもちろん現実に於いても主人公が大人になるまでを追っている作品になります。

 

この、長い年月を、実際のキャストが成長するのを追っていくというのも然ることながら、私が感嘆したのはその12年間、クォリティが変わらないという点です。
キャストにしてもスタッフにしても、時と共に技術を身に付けますし、従ってレベルも上がります。センスに変化が現れることだってあるでしょう。12年間ということは主人公メイソンが歳から始まり18歳の誕生日、そして高校を卒業して大学入学を経るまで。この主人公を演じているエラー・コルトレーンは実際には歳から役を始めている訳ですが、いずれにしても19歳に到るまでですから、普通に考えれば演技力的にも、そこから醸し出される雰囲気的にも違いが現れて当然です。
おまけに撮影や機材等の技術面にしても、大きく様変わりするだけの時間です。実際、劇中に登場する家電等には変化が見られます。
にも関わらず、映画作品という観点から観たとき、役者の演技も映像的クォリティも、まったく何の違和感も見られない。逆に言えば12年前の撮影開始という時点で既にそれだけの完成されたスタイルを築き上げていたことにもなる訳であり、相当に確立したビジョンと心構えが無ければ到底実現できない企画だったことが判ります。

 

 

以下、ネタバレを含みます。

 

 

最初に言ってしまいますが、本作にはストーリーはあるものの、強いエンターテインメント性を期待する作品ではありません。何か大きな事件が起きる訳でもなければ、主人公が何かを学んだり身に付けていったりというものが如実に現れていくというものでもありません。当たり前の風景を当たり前に描いているだけです。

 

「ということは、
 何でもないふつーの家庭を
 ただ描いているだけなの?」

 

うーん…、そこまで平々凡々というか平和な家庭でもないのですが、その起きた事件によって起承転結的に伏線帰結があるという意味を持たない、ということになるでしょうか。
主人公メイソン父親はちょっと訳ありでして、まぁ端的に言えばロマンだけを追い求めているオトナになりきれていない男。一応生活費はあるっぽいので何らかの仕事はしているのでしょうが、定職らしい仕事をしている雰囲気は無く、ミュージシャンになるのが夢。当然の如く、妻のオリヴィアとはしょっちゅう喧嘩をしており、結果、破局を迎えてしまう。
ただ、こんなロクデナシでもロマンを追っている所以か、熱意だけは持っていて、音楽を志す故か人を楽しませようという心は人一倍強い。そんなところが子ども達には受け入れられており、メイソンや姉のサマンサには人気のパパでもあったりします。オリヴィアとしては複雑な心境ですし、そんな子ども達の気持ちに対して邪険になるほど冷淡にもなれず、この後も翻弄されてされ続ける訳です。

 

で、大学の恩師であるウェルブロック教授と再婚し、新たな家族生活を営むことになるものの、大学ではいい先生に見えたものが、実際に夫婦関係になってみるとこれが呑んだくれで横暴オリヴィアは勿論、子どもに対しても、あれやれこれやれと命令し、思い通りにならないと癇癪を起こして当り散らす。そんなこんなで逃げるようにして、またしても別れることに

 

「それだけで
 じゅうぶんに事件だと思うけれども…」

 

ですが、だからと言ってこのトラブルが特に解決するようなことも無ければ、こうした家庭環境からメイソンサマンサが何かの影響を受けたというようなことが明確なかたちで描かれることもありません。無論、彼らはこうした環境を経て得たもの、失ったものがあるのも事実でしょうし、それらは隠喩めいたかたちで現れてはいます。しかし、伏線帰結的に描かれることはほとんど無く、そうした意味で「当たり前の風景を当たり前に描いているだけ」と書いたのです。

 

「じゃあ、
 本当にただ成長過程があって、
 それでおしまいなの?」

 

うう〜ん…、それもまた違うんですよねぇ…。

 

終盤で、元の父親メイソンの会話シーンがあり、その話は取り留めもないものへとなっていきます。
そこでメイソン「話の要点は?」と訊きますが、彼は「要点なんか」と答えます。

 

本作の解釈は観る人によって異なるとは思いますが、私はこの会話のやりとりを多少メタ的に捉えました。即ち「この映画の要点って何なのさ?」という問いに対して「じゃあお前の生きてきた道に要点などというものがあるのか?」と逆に問われているのではないか、と。
毎日の日記を付けている人もいるでしょうし、自伝を著している人もいます。そうでなくとも履歴書だの経歴書だのを書くことはあります。自伝ならば多少の伏線帰結を記すこともあるでしょうし、面接に行けば経歴書に目を通した面接官が「それで何をされてきましたか?」と訊くこともあるでしょう。
しかし、それでも「要点」などというものがある筈もないのです。

 

さらにメイソンは大学のルームメイトと「一瞬」について話します。曰く「“一瞬”は終わらない。すべての時間が繋がっており、“一瞬”とは常に“今ある時間”のことなのだ」と。

 

これは言わば本作の「総論」のようなものでしょう。

「要点」ではなく、「総論」。

 

本作の主人公は少年メイソンではありますが、彼だけではなく父も含めた家族全員が成長してゆきます
映画の冒頭、メイソン歳のとき、姉のサマンサはむしろ彼よりもガキっぽいし、は前述のようにコドモっぽい。母オリヴィアは頑張ってはいるものの、男運の悪さもあってか空回りばかり。メイソンがそんな家庭環境から様々な影響を受けていることに宜しく、周囲もメイソンから得ているものがあり、つまり本作が描くのはメイソン以外も含めたそれぞれの人生

 

では「人生」とは何か。
答えは色々あるのだとは思いますが、連続した一瞬という時間の中にあるそのすべて、というものが本作に見出す解なのではないか。
翻って、本作は劇中だけではなく現実にも(スタッフさえ含めて)12年間を経た時間が収められています。フィルムのコマコマは文字通りの「一瞬」ですが、これが連なった姿が集合名詞的意味でのフィルムになり、「映画」という姿を成す。この「映画」は劇中の(架空の)人物の日記であり、かつ、(スタッフも含めて)それを演じた実際のキャストの記録でもある。そして、そこに描かれているもの、それが人生模様人生劇

 

本作のタイトルは才のボクが、大人になるまで。(原題:Boyhood)』ではありますが、もしかしたら監督は「我々全員が、成長するまで。」と言いたかったのかもしれない。そんなふうに思いました。

 

 

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白ゆき姫殺人事件

だいぶ日が経ってしまいましたが、日、『白ゆき姫殺人事件』を観てきました。

 

白ゆき姫殺人事件
http://www.shirayuki-movie.jp/

 

メッセージ性が豊富にして重厚。

 

本作は、そのタイトルからも想像できるようにミステリ、いわゆる推理モノと呼ばれるジャンルになります。
主人公はテレビ局で映像ディレクターとして勤める派遣社員。しかし正直言って、よくこんな輩が派遣されて文句のひとつも出ないなぁと思うような、仕事中にTwitterばかりしている男です。
物語は概ね、この赤星雄治の視点で展開されます。そして多くのミステリで主人公が探偵役を務めることによろしく、本作でも彼が探偵役となります。

 

そして、本作のひじょうに特徴的な要素として、この赤星も利用しているTwitterがあります。
先述のように赤星は仕事中にも頻繁にツイートしています。彼はテレビ局の人間である故に、放送や取材に関する情報を知っていますし、彼自身も取材や制作を行っています。
知られているようにTwitterはごく短い文章しか書き込めませんから具体的な内容をつぶやくようなことはありませんが、しかしそれでも端々が漏洩していくことになります。
これによりネットに拡散していったり、彼のツイートに返信が付いたりしていきます。

 

いつしか、こうした情報は一人歩きするようになり、事件そのものにも影響を及ぼすようになっていきます。
そう、本作はミステリというよりも、ネット社会とプレスとを描いた社会派の映画作品なのです

 

もちろんミステリとしてもしっかりしています。
しかし、多少ネタバレになりますが、多くのミステリにあるものが本作には登場しません。最後までひとつも登場しません。

 

「あるものって?

 

彼は探偵気取りになっていますが、別に警察官でも無ければ私立探偵でもありません。
また、報道部の記者ではなく、飽く迄もバラエティ番組のADです。従って、物的証拠を手にすることがありません。ただひたすら、取材した相手の証言等から推理していくだけです。
よく勘違いされている方がいますが、「推理」という言葉は飽く迄も読んで字のごとく「理を推しはかる」という意味でしかありません。基本的に多くのミステリには「推理」と「証拠」はセットで進行し、決定的な証拠を見付け出すことで真実の解明に到るのです。
ですが本作にはそれがない、ということは、勘の良い方ならばお判りでしょうが、彼は最後までその推理の決定的証拠を見付け出せません。

 

事件は、ある石鹸メーカの女性社員が山林で殺害され、死体を焼かれた状態で発見されたというものです。
そして赤星は、この被害者の同僚を知人に持っており、その繋がりから事件への関心と、自らのツイートによる反響とで本件の独自取材を始めていくことになります。

 

 

以下、ネタバレを含みます。

 

 

かようなミステリであるため、基本的に証言しか出てきません。また、その裏取りにしても矢張り証言に留まります。
証言者はそれぞれ、実際に目撃したもの思い込み自らの保身等が絡み、虚実の混じった発言をしていきます。

 

「自らの保身って、
 犯人以外に何を保身するっていうの?

 

人が嘘をついたり本当のことを隠したりするのは、何も犯罪に噛んでいるからとは限りません。
例えば愛人関係があったとすれば、これをおもてには出したくないと考えるでしょう。また、そうした関係には到っておらずとも、余計な噂の立つことや詮索されることを嫌がるということもあるでしょう。
それに、仲の良い者同士は、その相手を悪くいうことをしないでしょうし、弁護もするでしょう。
逆に、あまりよい印象を持たない相手のことは、無意識のうちに実際よりも悪く口にすることもあるかもしれません。

 

従って、単に「誰が嘘をついているか」ではなく、「この証言のどれが事実で、どれが嘘(ないし思い込みや大袈裟な表現)か」を見抜けるかが、本作のミステリを解く上での鍵となります。ぶっちゃけ、登場人物の全員が、虚実織り交ぜで話をしています。
証言をもとに進行していくタイプのミステリに慣れている人は、割と早い段階で重要参考人となりうる人物の目星を付けられるのではないかと思います。

 

実際、赤星にはその機会がありました。
彼自身、狩野への取材の際、彼女が犯行の段取りについて話をしたとき、「それ、想像だよね?」と訊いています。
この時点では狩野は容疑者ですらありませんから、飽く迄も赤星は純粋に狩野の「推理」として話を聞いています。そして、根拠となりうるものもない段階に於いては、それは「推理」ですらなく単なる「想像」です。
どのようにして犯罪が行われたか、具体的な段取りが語られても、そこに真実味はまだ無かった。狩野も、赤星からの突っ込みによってそのことに気付きました。
このときの彼女の微妙な反応を見逃さないか、或いはこの証言や「想像」の裏取りに向かえば、赤星は方向性を誤らなかったのかもしれません。

 

 

しかしそれはミステリとして本作を捉えたときの話です。
ですが、本作はミステリとしての顔だけではなく、社会派映画としての側面もあります。むしろ、そちらの顔のほうがメインではないかとも思えます。

 

それはネットとプレスに対する痛烈な批判です。
赤星勇み足な取材と、暴走した「推理」によって、虚実織り交ぜの番組が出来上がり、これにより関係者周囲の人格、尊厳を大きく傷付けました。
これに呼応したツイートの連中もまた同罪なのですが、彼らはそれに気付かず、プレス批判と、次のネタ探しに奔走するのみです。

 

 

でもですね、私はもっと上の視点から考えてみたいと思うのです。

 

「上の視点?

 

恐らく、本作を観た人たちの感想は、大きく次のつのいずれかになると思います。

 

ひとつは、劇中のツイートを行う者たちに感情移入し、プレス批判の映画として論じる者。
ひとつは、プレスにもネットにも批判を向けた作品として論じる者。
ひとつは、これらの批判に苛立ちを見せる者。

 

「それで?

 

でも、それらは本作を社会派映画作品として捉えた場合、中途半端な考察でしかないのではないか、と。

 

話をわかりやすくするために、そのつのタイプのうちのつめを例に挙げますが、恐らくこれに含まれる人は、概ねプレスの人間でも無ければTwitterを利用しているユーザでもないでしょう。ひょっとしたらインターネット自体にも否定的で利用していないかもしれません。
或いは、利用していても、或いは、プレスの人間でも、自らは気を付けているので関係ないと考えているかもしれません。
或いは、関係があるかもしれないが、だからこそ気を付けるべきだと常に意識している人かもしれませんね。

 

「うん、それで?

 

しかし、本作ではプレスやTwitterという媒体が、いわば「小道具」として登場したので、それらを認識することができるのですが、かようなケースに到る媒体、或いは行動は、何もこれらに限ったものではないんですね。

 

本作では、赤星という固有のキャラクターが、盲目的になり、人を傷付け貶めるものとして具現化して表現されているわけですが、先述のつ止まりの人もまた、そこで盲目的になっているのだと気付くべきなのではないか、と。

 

「シオンさんはそれに気付いているから大丈夫だと

 

違います。
大丈夫だ、などと考える時点で盲目的なのですよ。
或いは、気付いてもなお見えていないものがあるのかもしれない。

 

残念なのは、こうしたメタな次元まで論じた、本作の評がまったくと言っていいほど見られないということです。
誰もが本作のプレス関係者になるし、Twitterユーザになりうる。“赤星”になりうる。そのことを論じていません。

 

 

赤星ばかりではありません。
容疑者とされた城野。彼女にも、誰もがなりうるのです。

 

赤星が方向を見誤らずに済みうる機会が一度あったことによろしく、城野にもあそこまで状況を悪化させずに済みうる機会がありました。
芹沢ブラザーズ雅也を転落させてしまったことは不幸な事故、そして、動転した彼女がその場を逃げ出してしまいホテルに閉じ籠ってしまったまでは、その良し悪しは別として、仕方がないと言えなくもありません。
冷静でいられる人がどの程度いるか。少なくともこの時点での、彼女の行動を批判するのは、そうしたことを棚に上げた発言まように思います。

 

ですが、それから数日間、彼女はホテルの部屋から出てくることは無く、その間に赤星の暴走が進み、状況は悪化の道を走り続けました。
この、どのタイミングでもいい。彼女が警察に相談もしくは出頭すれば、その瞬間に鎮火した話だったのです。
何故ならば、この事件に於いて、当事者たちしか知りえない情報を持っているのは被害者の三木、真犯人の狩野、容疑者である彼女城野人しかいないからです。

 

そして、ここで最初のほうで触れた、通常のミステリにはあって本作にはない「物的証拠」というものが大きく関わってきます。
警察は、物証を持っているのです。故に、城野の証言の裏取りができる存在だったのです。
城野が出てきて、彼女の証言が出てきて、それが警察から発表されさえすれば、瞬く間に鎮火しえたと言えるのです。
もっとも、そのタイミング如何によっては赤星への批判は変わらなかったかもしれませんが。

 

 

先ほど、誰もが“赤星”になりうるし“城野”になりうると書きました。
“赤星”“城野”になりうる故にどのような態度が必要なのか。それを考えることこそが、本作への感想になるのではと思いました。

 

 

 

 

 

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『レゴムービー』のファントレーラーな話。

映画自体は今日が最終日の劇場も多いので難なのですが、せっかく作ったものなので、自分のブログでも触れておく話題をひとつほど。

 

 

先日、私のブログでもご紹介した『LEGO® ムービー』ですが…、

 

【過去ブログ】

LEGOムービー
http://blog.hangame.co.jp/agc_tailltea/article/41809739/

 

…公式の日本版予告編がわりと不評です。

 

『レゴ・ムービー』予告編
https://www.youtube.com/watch?v=ehdm0JxlJGg

 

自分はそこまで悪いとまでは思っていないのですが、世間一般ではこの流行語はっちゃけまくりの予告編が相当にスカンを喰らっております。

 

そんなわけで、映画ブログつながりでお世話になっている方が、海外版の予告編をもとに翻訳し、字幕を付けた動画をアップされました。

 

レゴムービーの日本版予告編があまりにヒドかったので、海外版本予告に字幕をつけてみた
http://kagehinata64.blog71.fc2.com/blog-entry-726.html

 

The LEGO® Movie - Official Main Trailer [HD]
https://www.youtube.com/watch?v=fZ_JOBCLF-I

 

レゴムービー メイン予告編 日本語字幕付き
https://www.youtube.com/watch?v=TiD6W7_vJJg

 

使われたソフトはiMovie
ところがそのソフトの仕様の問題で、字幕がどうにも読みづらく、当人曰く「がっかりだよ!」とのこと。

 

そんなわけで、シオンはKdenliveの練習も兼ねて、少し直してみようかと思いました。

 

レゴムービー メイン予告編 日本語字幕付き・改
https://www.youtube.com/watch?v=viWlPT9tNhg

 

ちなみにKdenliveというのはLinux用のノンリニア編集ソフトです。
多機能なのは良いのですが、挙動にクセがあるほか、日本語による記事がほとんどないため、試行錯誤を繰り返して試している状態です。

 

Kdenlive

 

私としてはもっとキレイに調整してまとめたいのですが、そんなに時間を掛けていると、映画自体がどこの劇場からも終了してしまうので、適当なところで妥協しました。

 

「どこが気に入らないの?

 

たとえば、このスポットの文字がキレイじゃないのがイヤ、とか…、

 

 

何故かレイヤーを枚以上は重ねられず、キャスト名を消さざるを得ないの何とかしたい、とか…、

 

 

DスポットはtrueSpaceで作っており、本当だったらブラーを掛けたいのですが、半透過処理の方法が思いつかないのでコマ送りで観るとダサい、とか…。

 

 

まぁ、この手の編集技術は、慣れて、ノウハウを積んでいくしかないんですよねぇ。

 

 

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チーム・バチスタFINAL ケルベロスの肖像

日、『チーム・バチスタFINAL ケルベロスの肖像』を観てきました。

 

チーム・バチスタFINAL ケルベロスの肖像
http://batista-movie.jp/

 

漫画みたいになってしまった…。

 

本作は海堂尊氏の医療ミステリを原作にもつ作品です。
タイトルで「チーム・バチスタFINAL」とうたわれているように、『チーム・バチスタの栄光』シリーズの最終作に位置付けられたものになります。
ただし劇場版映画『チーム・バチスタの栄光』シリーズではなく、テレビドラマ版のキャストになります。

 

私は『チーム・バチスタの栄光』を医療ミステリの傑作だと思っています。
医療事件をテーマとした小説としても逸品でありながら、ミステリとしても秀逸であり、医師ならではの考証に基づく描写と、緻密な伏線に加えての意外な結末。これがくだんの作品を絶賛に到らしめています。

 

『ケルベロスの肖像』はまったく知りませんので、今回の映画で初めてその内容に触れるものとなりました。
ですので原作の描写がどうであるのかは知らないのですが、少なくともこの映画に関して言えばミステリとしては難ありな構成であり、さらに医療を扱った作品としても架空要素が多すぎて『チーム・バチスタの栄光』にあったような高いリアリティは感じられないものでした。

 

 

『ケルベロスの肖像』のテーマとなるものは医療事故とその隠蔽。そして日本に於ける検死死亡時画像病理診断の社会的および医療的現状です。
これらのテーマに関しては、しっかり描けています。
ですが、本作は飽く迄も医療ミステリであり、上記のようなメッセージ性は重要ではあっても本分ではありません。

 

物語は地下の密室で人が変死をとげることから始まります。
入口はエレベータしかなく、外部からブレーカーが落とされ、彼らは閉じ込められた状態でした。しかし死因を調べても身体には異常が見当たらず、薬物反応も出ません。
奇しくも最新型のMRIを導入した、稼働を間もなく迎えるAiセンターで早速、画像診断を行うも、やはり何の出てこない。
時を前後して、くだんのAiセンターには脅迫状が届き、稼働の進退を問われることになる…というものがおおよそのあらすじになります。

 

なお、Aiセンターとは先述の死亡時画像病理診断を行う施設のことで、本作の舞台となる場所です。
リヴァイアサンと呼ばれる、世界に台しかないという最新鋭のMRIを導入し、看板たるものとして運用開始を待っています。

 

 

以下、ネタバレになります。

 

 

私もミステリファンではありますが、とにかく構成に荒が多いです。
まず最初に密室での変死事件。地下の部屋にエレベータでしか行けないという構造が、果たして建造物として有り得るのかということが一点。

 

「それを言ったら身も蓋もないんじゃないの?

 

確かにそれはありますが、例えばその部屋で火災が発生したら、どうやって避難するのです?
まして、くだんの部屋にはバーカウンターまであるのですから火気のある空間と言えます。消防法的にどうなのだろうと思わざるを得ません。

 

ちなみに密室ではありますが、本作は通常の密室殺人とは異なります。明らかに外部からブレーカーが落とされているわけであり、普通に考えて犯人は外部に逃げていることが判ります。密室ミステリとしての意味はまったくありません。
ですが、その一方で密室であることによって彼らを閉じ込めているというわけであり、殺人部屋としての意味を与えています。
もしこの部屋にエレベータだけでなく階段等もあり、かつ、その階段も使えないようなかたちで閉鎖空間を構築していたならば、先述の件に関しては問題としなかったでしょう。

 

 

しかしミステリとして問題があるのはくだんの部屋だけではありません。
ほとんどの情報が、「じつはこうだった」的に後出しで出される構成であり、観客にとってはアンフェアなものとなっています。
ミスリードを図るための演出ではなく、そもそも伏線もなく後から情報が出されるというケースもあるため、ミステリとしては正統とは言い難い気がします。

 

この「じつはこうだった」的な展開は、本作のテーマとなる医療事故等にも現れます。
登場する薬品やそのメーカは当然、架空のものなのですが、そうなると観客が推理をするためには事前にそうした名称や関係構図が示されていなければなりません。
ところが本作には後になってこれらの名前が登場するため、前提となるものもわからないままに話が進められてしまっています。
結果、ミステリとしてだけでなく、医療問題のリアリティという側面でも弱いものになっています

 

 

極め付けは終盤のクラッキングです。
現実のクラッキングの様子を再現しても演出としてわかりづらいという実情は理解できますが、こんな挙動を見せるコンピュータウィルスは一般論的に有り得ませんし、本気でシステムダウンを狙う犯人であればもっとシンプルかつまともなクラッキングを行います。
緊迫感を出すという意味もわかりますが、リアリティが著しく失われており、最早漫画にしか見えませんでした

 

医療に掛かるシーンも少なく、申し訳程度であり、「これ本当に医療映画か?」と疑いたくなりました。
手術に関する監修は皆無であっても成立するであろう構成は、本作に対する期待とは大きく離れたものとも思われ、とても残念でした。

 

 

医療事故やその隠蔽問題といったメッセージ性はよくわかります。
また、Aiの重要性や日本のMRI普及率に掛かる期待といった部分も、流石は医療に携わる人物が書いているだけはあると思わされます。

 

ですが、医療ミステリとしての本分があまりにも酷い描き方をしているため、ともすればそれらのメッセージが取って付けたようにも感じられてしまい、ひじょうに残念な気がしました。

 

 

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