タルティーン司令部戦略課室長日誌

ここだけで読める、戦略課の秘話その他。

本/雑誌の記事

感想文とはかくあるべきや

お題ブログ:読書感想文にぴったりなおすすめの本を教えて!

 

もし読みたいものがあるならば。
或いは、もし何某かの感銘を受けたり、或いは人に紹介したいと思ったものがあるならば。
それを題材に書けば、それで良いと私は思っています。

 

「それはライトノベルやマンガでも良いということかな

 

ライトノベルマンガどころか、本気で何かを感じたのであれば、それが事典図鑑専門書画集写真集でも構いません。
さらに言ってしまうならば、ケータイ小説などというものもある今の時代、それが紙に印刷され、製本させたものである必要すらないと考えています。ウェブ上の記事でも良いでしょう。本人に断りを入れて許可が貰えたならば、ブログ記事ツイートでさえ構わない。そう考えています。

 

「でも、
 そんなものの感想を書いても、
 誰も認めてくれないよ?

 

なぜ?

 

「なぜって、当たり前じゃない

 

ではこう訊きましょうか。
そうした“当たり前”のことに対して疑って掛かることを書いた本があったとして。その本の感想は書けない。そういうことになりますね。
思想書、哲学書と呼ばれるものであっても、小説の体をなしている作品は少なくありません。有名な哲学書であるフリードリヒ・ニーチェ『ツァラトゥストラはかく語りき』は小説です。小説の感想がよくて思想書が否定される。それは矛盾であるし、定義もありませんよね。
宗教書として世界のだれもが知る聖書は神話であり詩集であり伝記です。小説という物語を認めながら、宗教的な訓示や教えを否定する。これも矛盾です
フィクションであれノンフィクションであれ、それが舞台化や映像化されるケースは少なくありませんが、例えば映画『クイール』の原作は写真集です。もはや物語ですら無い。ではそこに感動は無いのだろうか。もちろん観る者によっても異なるでしょうが、感動を覚える者だっているでしょうし、それ故に映画やドラマになったのです。

 

 

そもそも読書感想文とは何か。
字義的には書を読み、そこに覚えた感想を書きあらわした文のことです。かつては書と言えば製本されたものを指した時代もありました。
しかし今は先述のように電子的な書籍もありますし、音声による本もあります。「書」の定義は既に変わり、拡大されている時代です。にも関わらず、「読書感想文」という熟語のみが数十年も昔の定義のまま存続している。それはおかしいと思いませんか?

 

「でも、
 今でも毎年のように推薦図書とかが発表されているよ?

 

推薦は飽く迄も推薦です。
宿題自体が当該図書を指定しているならばともかく、さもなければ、それらの本を読んで書かねばならぬというものではありません。
まして、本人が興味も無く、また、読んでも感想をしたためるでもないようであるならば、無理にそれらの本を読んで書いた文章に何の意味があると言うのでしょう。それは最早「感想」ですらありません。宿題は時として作業的になることもあるでしょうし、そうした側面を否定はしません。しかし「感想文」を称するのであれば、それは感想文であるべきだと思うのです。オトナが喜ぶものを書くことが感想ではないのです。

 

じつはシオンは小学生時代に読書感想文で優秀賞をもらい、当時の文集に掲載されています。
しかしこれこそがオトナの喜ぶ文章でした。その当時は私も喜んだものですが、そこに書かれたものが本当の感想ではないことを自覚するにつれ、自分にとっては黒歴史のように感じられてきました。
結果、次第に「誰かに喜ばれるモノを書く」ことから「誰にも認められずとも自分の思いを書く」ことに移ってゆき、この傾向は年月とともに強くなっていきました。

そうしたことが、今の自分を形成しています。

 

私自身、前述のように「感想でもない感想文」を書いていましたから、偉いことを言えた義理ではありません。しかし激しく後悔している自分がいることも事実です。当時の文集は図書館に行けばありますし、その過去を消すことは絶対にできません。賞に泥を塗った負い目もあります。
そして、それだけの負債を抱えて気付くことのできたこの思いは明らかにすべきだろうとも考えています。

 

「同じ思いをして欲しくない、と

 

いえ、そういうことは余り考えていません。それは偉そうな視点だと見ているからです。
むしろ、もっと自由に書くべきではないかと。

 

本気でその書について書きたいことがあるのであれば、それはどんな内容でも良いし、どれほどの長さであっても構わない。それこそが真に心から沸き起こる感想というものでしょう。
しばしば原稿用紙に何枚などという課題として出されますが、それすらも否定して構わない。枚で済むならばそれでも良いし、100枚書いてもまだ足りないというならばガンガン書き綴ればよい。感情とは本来そういうものであるはずなんです。

 

「でも、

 それじゃあ宿題として提出できない

 

そう。
例えばそれが原稿用紙枚という課題であるならば。そこには勿論、枚にまとめるという文章能力を宿題としている意味があることもまた事実です。
しかし同時に、課題を出す側の都合でもあるのです。私の賞にもあるように文集の紙面という事情があったりと、感想とはまるで違うところを走る理屈が幅を利かせている側面があったりもするのです。

 

しかし、それならば枚という課題はとりあえず守ればよく、その一方で本当に書きたいものを書きたいだけ書けば良い。そう考えます。
原稿用紙100枚にも渡る感想を書き、その一方で課題として枚に纏めれば良く、そしてその両方を提出するのです。
どれだけの感銘を受けたのか、グゥの音も出ぬほどに、先生に訴え掛けてみましょう。もしその先生が、枚のほうしか見ないのであれば、その先生はその程度のオトナでしかない、そういうことです。

 

同様に、感想文を書くべき本が指定されているならば。
これもまた、課題であるならば、それを順守せねばならないでしょう。しかしその一方で、本当に書きたいものについて書けばいいんです。その本がどんなものでも良いでしょう。マンガでもいいし、ぶっちゃけえっちな本でも構わない。私はそのように考えています。
その両方を提出し、先生がどう判断するか。そこからその先生がどんな人物なのかも見えてきます。本気で書きたいものがあるならば、そうすべきなのです。了見の狭い者を相手にする必要なんてありません。

 

感想文を表彰された翌年。私は推薦図書と、本当に自分が面白いと思った本の感想をつ書きました。
面白いと感じた本は、あいにく著書名は忘れてしまいましたが、暗号について児童向けに書かれた専門書でした。ヒエログリフ(古代エジプト文字)等といった古文書の解読から始まり、太平洋戦争時代の暗号通信へと続く諸々の話が書かれており、ミステリやスパイ小説とも違う何とも言えない興奮を覚えた私は、これは皆に紹介したいと思ったのでした。
私は満足感がありました。しかしこのとき、クラスメートにはマンガを原作に持つ小説の感想を書いてきた者があり、「やられた」という嫉妬にも似た思いがありました。
こうした経験が、今の私の形成には多分に影響していることは間違いないでしょうね。

 

 

中学、高校に入ると、さらに読書の鬼と化し、高校時代には図書室から借りた本の冊数で歴代トップとなりました。
ジャンルは小説、童話、詩集、専門書など、何でも興味を覚えればとにかく読むという具合でした。

 

ちなみにこの時、もっとも面白いと思った本は講談社ブルーバックス『二次元の世界』。と言っても今でいうアニメ等を指す「二次元」ではなく、数学や物理学でいうところの「次元」です。
残念ながらこの本。今では絶版らしいので、読むのは難しいと思われますが、内容は二次元の世界を舞台とした小説です。ブルーバックスは、ご存知の方もおられると思いますが、学術専門の新書シリーズです。その中に何故にそのような荒唐無稽な小説が?…と思われるでしょうが、この物語。延々と二次元世界を舞台とした話が続いたかと思うと、終盤になり、三次元空間に召喚されるという展開が待っています。主人公である二次元人の視点で読者も読み進んでいる中で、突然三次元空間が展開されることで、「次元の軸」というものを直感的に理解するものとなっているんですね。
四次元空間というものに強い関心を小学生高学年の頃から抱いていた自分にとって、これは三次元空間を生きる我々が四次元空間を理解するとはどういうことなのかを直感的に与えてくれた本となりました。

 

こんな本。到底、学校の推薦図書として並ぶことはありません。それでも私はひじょうに面白いと感じたのです。
図書館から借りた冊数でトップとなり、校内の冊子に掲載されたとき、私はその記事の中でこの本のことを紹介しました。
自分が本当に面白いと感じ、その面白いと感じた理由を述べ、紹介することができた、納得のいく瞬間でもあったのです。

 

 

この記事の先頭へ▲

杉花粉で地獄変

 

Googleのトップが次のようになっていました。

 

芥川龍之介 生誕 121 周年
http://www.google.co.jp/
https://www.google.co.jp/logos/2013/ryunosuke_akutagawas_121st_birthday-1059006-hp.jpg
http://addieworks.typepad.jp/google_logo_museum/2013/03/google-japan-logo-%E8%8A%A5%E5%B7%9D%E9%BE%8D%E4%B9%8B%E4%BB%8B-%E7%94%9F%E8%AA%95-121-%E5%91%A8%E5%B9%B4.html

 

曰く「芥川龍之介 生誕 121 周年」なのだとか。日が誕生日だったのですね。
しかしそれを知らずとも、このデザインで芥川龍之介の代表作『羅生門』を描いていると判るのは、くだんの作品がいかに著名であるかを意味していると思います。

 

ちなみに、行きは一緒に行っても、帰りは現地解散で置いてけぼりにしたりすることを、私や私の周囲は「トロッコ」などと言って揶揄したりもしていました。

 

 

まぁ、そんなことよりも花粉症の季節となるこの時期は、からあばばばばと出ることが大変なのです。
「オバアサン。オバアサン。今夜ハ花粉ガヒドイカラ、寝床ニチリ紙トゴミ箱ノ仕度ヲシテ置イテオクレ」

 

「名作が台無しっっ!!

 

 

この記事の先頭へ▲

月世界旅行をしましょう。

お題ブログ:月が綺麗ですね!月には何がいると思いますか?

 

昨日のブログで江戸川乱歩(実際には江戸川乱歩原作のゴーストライター執筆によるものですが…)の『電人M』について触れました。

 

【昨日のブログ】

♪MはMouthのM (かぼちゃワイン風に)
http://blog.hangame.co.jp/agc_tailltea/article/39334467/

 

さて、この作品には月への宇宙旅行が描かれているんですよね。

 

「少年探偵シリーズって昭和の時代が舞台だよね。
 宇宙旅行なんて実現可能なの?

 

このシリーズは推理探偵ものとしてはかなり荒唐無稽な話も出てきますし、SF色の強いものもあるので、その辺りを突いてもあまり意味はありません。
また『電人M』の月世界旅行は、飽く迄もそういう趣旨のテーマパークを意図しているので、本気にされてもアレなんですね。

 

という訳で。

 

お題ブログ:月が綺麗ですね!月には何がいると思いますか?

 

こういう答えを用意するハンゲームユーザはそうそういないでしょうねぇ。

 

電人Mがいます。

 

 

この記事の先頭へ▲

24時間の選択分岐

 

www.sinkan.jp/news/index_2340.html
今日が人生最後の一日だったら、何をしますか?

 

 

一般的な答えとして「悔いの無い生涯にする」というものがありますが、では何を以て「悔いの無い」とするかは人によって違うし、漠然としている人も多いと思います。

 

で。

 

やはりよく見掛ける答えで「やりたい事をしておく」とか「すべきことを片付けておく」というのもありますが、…人にもよる気はしますが、恐らくこれってナンセンスなのではないでしょうかね。
やりたい事」だとか「すべき事」が有限であるならば良いと思います。こと、それが短時間で終えられるものならば問題ありません。
仮に余命1日と宣告されたとして、1日ですべてが達成できるならば、それを片付けることに大きな意義があるでしょう。
しかし、多くの場合、それって非現実的なんですよね。

 

もうやりたい事など無い、すべてやり終えた。もう思い残すものは何も無い。
そういう境地の人はともかくとして、「やりたい事」や「すべき事」を抱えている人は、恐らく一朝一夕でそれらが解決するとは思えませんし、更に言えば、その「やりたい事」を終えたら、恐らく次の「やりたい事」がやってくるでしょう。少なくとも自分はそうです。所詮は俗人ですから、欲が無くなるなんてことは当面ありえないし、今の時点では、やりたい事をすべて終えた自分などというものは想像すら付きません。

 

「じゃあ、
 今日が人生最後の一日だったら
 どうするの?

 

私の場合、普段と変わらないと思います。
余命1日を宣告されれば、流石に親しい人への挨拶くらいはするでしょうが、ことさら美味いものを腹いっぱい食べようとか、思う存分に遊び放けようとか、自暴自棄になって自爆テロを仕掛けようとか、そういう方向には動かないでしょうね。
何故なら、1日1日、一瞬々々、自分にとっての完全燃焼をしているつもりだからです。

 

「だらだら過ごしていないと

 

いえ、結構だらけていますよ。前述のように所詮は俗人ですから。(笑)
だらだらしていたら燃焼では無いという考えが、そもそもの間違いです。よく、1日は24時間しか無いのだから云々と言いますが、24時間しか無いならば、どうやったって24時間に詰め込める量の行動しか出来ないんです。その限りある時間の中で「だらだらする」という行動に有意義を感じるならば、だらだらすればいいんですよ。
寝る時間が惜しいという人もいますが、それは24時間に24時間以上の行動を詰め込もうとしているからです。逆に言えば、そんな人は24時間が30時間になろうが100時間になろうが足りません。「やりたい事」が無くならないというロジックと同じなんです。

 

やりたい事」を無限に増産して、1日が何時間あっても足りなくなる。この時点で「すべきことを片付けておく」なんて不可能ですよね。
24時間に24時間分の行動をきっちり収めてやれば、少なくともその1日を完全燃焼したことになります。その行動のひとつが「寝ること」や「だらけること」であっても、その人にとって有意義であるならば燃焼になるんです。

 

そういう意味に於いて、

 

     (1)人はいつ死んでもおかしくないと覚えておく

 

これは常に考えている事ですね。
「余命1日の宣告」といったことを書いてきましたが、それが次の瞬間であろうと、私にとっては同じです。
第一、いつ死ぬかなんて判る訳が無いでしょう? 突然、何らかの発作で倒れる事だってありますし、事故や事件に巻き込まれることだってあります。何も、危険なところにわざわざ立入るような事はしませんが、だからといって何事も無いなどという保障はどこにもありません。「まさかこんな目に遭うなんて」といった言葉は、その事象自体は想定外なのでしょうが、事故や事件に遭うといった次元で捉えるならば「自分は大丈夫」という安全神話の狂信者でしたという言及を意味することに成り得ます。

 

     (2)自分には必ず何らかの「生きている理由」があると考える

 

これはちょっと違うことを考えています。
自分には…というよりも、物事にはすべて、何らかの意味があるというのが私の考え方です。つまり「生きている理由」ではなく「存在理由」。
それは「生きている」に限らず、「死ぬこと」なのかもしれない。

 

道徳的な観点から考えると判りやすいので、そうした解き方をしてみます。
例えば死産で生まれた子は、生まれもって死んでいた。「生きている理由」しか無いのであれば、この子には存在理由は無かったということになってしまう。
それってどうだろうか?

 

「だから、その子は死ぬことに意味があったと?

 

その子は「死ぬこと」に意味があったかどうか、それは判りません。ですが、存在には理由があったと考えます。
それが「死ぬこと」だったかどうかは状況によりますし、立場にもよるでしょうね。
医学的見地から言えば、死産というケースがひとつ現れたことで、今後の医療に何かを残すかもしれない。
文芸的見地から言えば、そこにドラマはあったろうし、これを題材とした作品を生み出すきっかけになるかもしれない。

 

「でもそれって、その子自身じゃなくて、
 第三者視点での意味付けだよね

 

まぁ、私は「その子自身」ではありませんから、本人視点での存在理由を見出すのは無意味という気がしますが、自我があるという前提ならば、当然、自らにも存在理由を与えるでしょうね。
少なくとも、今の自分はそうです。

 

「その存在理由って?

 

おや? 今迄の話で判りませんでしたか?
例えば先程の「死産の子」の例では、医療や文芸に影響を与える可能性を示唆しました。即ち、物事は他の何物かに影響を与える力を潜在的に有しているんです。
今こうしてブログを書いていて、それを読む人がいるかもしれない。或いは、いないかもしれない。ただ、それ自体は自分の足跡には違いない。
某動画サイトでは再生数4000を数えるものもある。無論、そのすべてが観るべくして観に来た人では無いでしょうが、何かを求めて視聴した人もいる訳で、多少なりともその「何か」に寄与する事ができたと思うし、そう思いたい。
足跡を残すことこそが存在理由と思うし、本来、すべての物事は「足跡を残す」、それが存在理由の真髄だろうと見ています。

 

     (3)本当の自分、あるべき自分について、とにかく考え続ける

 

あるべき自分」って、神の視点でしか理解しえないですよね。

 

「他者からで無いと判らないということ?

 

いえ、それとも違います。
物語があって、そこにAさんとBさんがいる。あなたはAさんを演じているとして、相手方のBさんから見たのが「他人からの視点」です。
ただ、ここにはBさんの思考が介入します。Bさんの立場やイデオロギーが介入しうるんです。

 

「芝居ならば、観客の視点?

 

それも違います。
その物語が誰かによって作られたものであるならば、その作者は物語世界に於ける絶対的存在であり、神と言えます。作者はAさんというキャラクターに役割を与えており、「こういった位置付けだ」という設定を付けています。
この作者の視点こそが神の視点です。神の意志。「あるべき自分」の答えはそこにある。
となれば、そんなの無理です。仮に預言者であり、霊感を以て神の言葉を聴くことができたとしても、なおも自らの思考が介入しうる。即ち不可です。

 

     (4)生涯を通じて「自分の役割」を探し続ける

 

これは「(3)」とは違い、役割を探すというものなので可能ですが、私の考え方の場合、「(2)」を言い換えたに過ぎないです。

 

     (5)自分の「心の声」を聞いたなら、すぐに行動に移す

 

前半はイエス、後半はノー。私の大原則、「すぐには行動しない」。
何故ならば、その行動の意味を常に考えるからです。私にとって「すぐに行動に移す」は「(2)」や「(4)」と矛盾します。
意味を考えた上で行動の是非を判断し、分岐する。このような事を逐一しているのですから24時間完全燃焼しない筈はありません。

 

「でも、最後の1日に、そんなもたもたしていたら
 間に合わなくなって後悔することもあるんじゃ…

 

もし間に合わなかったとしても、それは判断の後の結果です。
自分の関与せざる他人の決断ではなく、自分の選択した結果なのですから、受け入れなければならないでしょう? それも含めての判断です。

 

「ハードボイルドな生き方だね

 

そうですか?
だらだら生きていることの、どの辺がハードボイルドなのか、

私には理解が出来ませんが。(笑)

 

この記事の先頭へ▲

お名前メモする