タルティーン司令部戦略課室長日誌

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2014年11月24日の記事

インターステラー

『インターステラー』(吹替)を観てきました。

 

 

インターステラー
http://wwws.warnerbros.co.jp/interstellar/

 

劇中で明確な年代は明らかにされませんが、数十年後から百数十年後を舞台としたSFになります。
地球の気候が次第に変化し、食物や酸素の減少を招き、宇宙へと植民することが喫緊課題となりつつある時代。しかし前述のように多くの市民にとっては宇宙開拓よりも食料のほうが重大。
主人公のクーパーは、かつてはNASAの宇宙飛行士であり、紆余曲折あって植民星を探すためのチームへと加わることとなり…、というものが大まかなストーリーとなります。

 

ただ、SFとは書きましたが、本作を観た人の多くは、SF映画というものの先入観を大きく覆されることでしょう。何故ならば、ちっとも未来っぽくないからです。服装や家財道具類、クルマ、その他のインフラ。どこを見ても今と変わらないか、むしろややレトロな感じさえ受けるものだからです。
まずこの点を良しとするか悪しとするか、評価が分かれそうな気がします。

 

私は概ね良い評価に傾いています。
過去のSF作品を観ると、時代とともに非現実的に見えたり、明らかに滑稽な描写があるものです。最も如実な例としてはコンピュータに関する描写。例えば197080年代の映画に登場するコンピュータはほぼ間違いなくCUI(文字だけで情報を表示するインターフェース)ですし、グラフィックもワイヤーフレームによるものがせいぜい。
しかし現実の21世紀では、一般家庭のパソコンやゲーム機レベルであってもGUI(グラフィカルに情報を表示するインターフェース)は当たり前。リアルなDCGも可能です。宇宙船に搭載するコンピュータがこれに劣る性能ということは、一般的な認識として有り得ないでしょう。
当時の技術として、かような表現が通常のコンピュータレベルで困難であったのも事実ですが、そもそも一般認識としてリアルなDCGによるコンピュータモニタなどというものが、かえって嘘くさく感じられたという背景もあります。要するに未来を描くSFとは、かような時代とともに現実とのズレが生じてしまう部分があり、避けられません。

 

思い切って“ありがちな未来感”を排除し、今とあまり変わらない情景に留めるほうが、かえってリアリティを生むこともある。多くのSF作品に触れていると、そのように思えてきます。恐らくは本作の監督、クリストファー・ノーランもそうした結論に到ったのかもしれません。

 

 

SF世界観としても異色ですが、それ以外にも全体として描き方、構成、設定、ストーリー、その他諸々、その多くが風変わりです。エンターテインメント性は高いのですが、はっきり言って万人向けとは言い難く、上級者向け作品と思ってそう間違いはないと思います。少なくとも映画慣れ、ないし、SF慣れしていないと、最後まで観ても何のことやら判らないかもしれません。
結構難解な部類に入る映画作品です。

 

ですが、前述のように、映画ファンであれば十分に楽しめる筈だと思います。多くの、既存の作品から影響を受けているであろうシーンが色々と登場しますので、それらのモティーフに気付けるならば、きっと充実した時間を過ごせるでしょう。

 

 

以下、他作品にも触れてネタバレを含みます

 

 

哲学的なSF映画作品と言えば2001年宇宙の旅』(1968年、スタンリー・キューブリック監督)を思い浮かべる人は多いと思いますが、本作もその影響を受けていると思われる場面があらわれます。
ですが、個人的にはチェコのテレビ映画『Nesmluvena setkání』(1994年、イレナ・パヴラスコヴァ監督)の要素を強く感じました。

 

何よりも、主人公たちを呼び寄せる「彼ら」と呼ばれる存在が必ずしも明白にならない点。これは『Nesmluvena setkání』そのまんまです。本作のアメリアの雰囲気が、どことなく『Nesmluvena setkání』マイカに似ていることは、私のその印象によく拍車を掛けるものとなっていました。

 

 

左、『インターステラー』 のアメリア / 右、『Nesmluvena setkání』のマイカ

 

冒頭の、何やら不可解な現象が相次いで発生するという点も、『Nesmluvena setkání』に見られるモティーフです。
『Nesmluvena setkání』では植民候補星である惑星マルカで不思議な事件が相次いで起き、やがて、そもそも自分たちがその星に来たこと自体、“彼ら”の力によって招かれたのだということに気付きます。

 

『Nesmluvena setkání』に於ける“彼ら”の正体は、いわば惑星マルカの意思とも呼べる存在でした。
『インターステラー』では遠回し的に自らが呼んでいたという帰結の仕方をしていますが、しかしそれですべてが納得のできる解決にはなっておらず、なお(劇中の時制に於ける)今なお人智を越えた何者かの力が及んでいる雰囲気を残しています。

 

 

『インターステラー』ラザロ計画には嘘が含まれており、また、マンは孤独な調査ゆえに心を病んでいたとは言え、クーパー達を罠にはめて地球に帰ろうとしました。
このモティーフに、どことなく初代『エイリアン』(1979年、リドリー・スコット監督)のアッシュを感じる方もいる気はしますが、私はここでも矢張り『Nesmluvena setkání』エヴゼンを髣髴します。

 

『エイリアン』アッシュは、その正体はアンドロイドであり、宇宙貨物船の運輸という嘘の裏でエイリアンを捕獲して帰還するという特命を受けていました。この任務遂行のためには手段を選ばず、乗組員の安全は二の次で行動し、そのために被害を拡大させていくことになりました。
『Nesmluvena setkání』エヴゼンは学術的好奇心にかられ、そこで遭遇した野生児ロビーが死ぬであろうことを理解しながらも、惑星マルカの研究をしようとし、同乗クルーだけでなく他船や地球の局員さえも巻き込んで誑かしました。

 

 

調査記録が消されていたり、結局は植民できるような星ではなかったりとか、その理由や伏線は異なるとはいえ、個々のモティーフには類似性を幾つも感じました。

 

 

ところでマーフィーの部屋に現れる幽霊の元ネタって、やはり『ウィザードリィ』ですよね。
その名も、そんまんまMurphy's Ghost。特定の場所にしか現れない上、経験値の塊。

 


 

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