タルティーン司令部戦略課室長日誌

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2013年12月08日の記事

かぐや姫の物語

12日、『かぐや姫の物語』を観てきました。

 

かぐや姫の物語
http://kaguyahime-monogatari.jp/

 

原作となっているものは、日本人であれば誰もが知っているであろう古典の名作『竹取物語』です。
この『竹取物語』とは現存する最古の日本文学でありますが、同時に文学作品としても希有の傑作と言えるもので、そして幾つもの謎を含んでいます。
まず、文章が極めて美しいです。古典文学ですから内容は古文ですが、しかし丁寧な表現がされており、それ故に、後世に書き改められたものが現存している文書であるとは言え、現代人の我々にも比較的わかりやすい文章となっています。
構成力も素晴らしく、単なるお伽噺に終始せず、庶民の暮らしや貴族の風俗を描き、さらにご存じのように主人公であるかぐや姫が月の人であったという奇想天外さも持ち合わせています。
そして注目すべきは今もご紹介したように庶民から見た貴族を描いているということ。それも、天皇さえも道化的な役として登場させています。これは明らかに政治的な内容であり、当時にあっては難しいものであったと想像されます。
何より、文章力が驚くほど完成されていることから、この物語を書いた人物は相当の学問を身に付けていることは明らかです。そうした身分ともなれば、恐らくは貴族階級かそれに準ずるところにある者であろうと考えるのが普通です。にも関わらず『竹取物語』は庶民の視点で描かれ、実在する貴族を滑稽な役柄として登場させ、しかもキャラクターによっては史実とは無関係に物語中で事故死に到るようなことさえ起きています。
世が現代ならばノーベル文学賞級とさえ思えるような、おそろしく完成された作品でありながら、その著者が不明であり、かつ、この物語が全編がほぼ完全な姿で現在に伝えられているという奇跡こそ、謎めかしたる要素であると言えます。

 

単なるお伽噺としてのあらすじをたどるだけであれば子どもでも楽しめる内容であることから誰もが知る古典であり、それ故にこれまでにも様々な翻案がされてきました。
絵本、紙芝居、アニメ、戯曲、映画、ゲームといった様々な媒体の姿を以て、いわゆる童話的なものから、ファンタジー、SF、時代物、さらにはアルトといったジャンルでも題材として用いられており、それだけ物語のシノプシスにある懐が広いのだろうと思います。

 

本作『かぐや姫の物語』でも、こうした諸々の要素を見出すことができます。
素材として、多くの分野に翻案しやすい作品なのかもしれません。

 

そんな中で本作がテーマとしているものは「人の業(ごう)」であろうと私は見ました。
キャッチコピーが「姫の犯した罪と罰」であるのも、そうしたことによるのではないでしょうか。

 

良かれと思ってしていることが、しかし人を不幸にしている。それも、誰をも不幸にしている。或いは自分さえも、愛する者さえも。
もっとも、エゴイズムという観点で『竹取物語』を描いた作品はこれまでにもありました。今の時代から見れば、かぐや姫が美人だという理由でホイホイやってきてカネや権力にあかせて貢物を拵える人の貴公子は軟派なエゴイストに映るでしょうし、そうした貴公子たちに無理難題を突き付けるかぐや姫もまたじゃじゃ馬女のエゴイストとして描かれた作品がありました。
本作の(さぬきのみやつこ)もカネと権力に目が眩んでいたとも読めますし、1987年の実写映画『竹取物語』宇陀はまさにそうしたキャラクターでした。

 

『竹取物語』(日本、1987年、市川崑監督)

 

ですが、本作『かぐや姫の物語』1987年の『竹取物語』と大きく違うのは、どの人物も飽く迄も「相手に良かれ」と考えて行っているというところにあります。そういう意味では、悪心を抱いている人物はいないんですね。
は多少勘違いをしている(己惚れていると呼ぶべきか)ところはありますが、かぐや姫のことを思って奔走し、山を捨てて都の屋敷へと居を移します。
実際、己惚れているのは誰もがそうなのかもしれませんが、人の貴公子天皇も同じで、自らがかぐや姫を妃とすることこそ彼女の幸せだと信じて疑いません。もっとも当時を思えば、このように考えるであろうことはさもありなんとも言えるのですが。

 

しかしともあれ、いずれにしてもそれらはかぐや姫の求めているものではありませんでした。幸せになるどころか、自らの感情を封じ込む以外の何物でもなかったのです。

 

ただ、ここまでは割と他の翻案作品でも見出すことのできる要素ではありました。
本作がユニークであるのは、原典『竹取物語』の謎のひとつとされている、何故にかぐや姫は月に帰らねばならなかったのか、ということに対する解でしょう。

 

 

以下、ネタバレになります。

 

 

かぐや姫が月に帰らねばならなかった理由
それを考える前に、本来であればもっと先にあるべき問いがあります。
かぐや姫月に「帰った」のです。つまり、もともとは月の者であった訳です。

 

「当たり前だね

 

そう、当たり前なのですが、ならば何故に地球にやってきたのか。「帰る」以上は、まず「来なければ」なりません。

 

原典ではこの理由が描かれていないため、曖昧にしている作品も多いですし、或いは偶発的に地球に落ちてきたというような設定であるものも見られます。
このため、かぐや姫というキャラクター設定が不詳となってしまい、ともすれば感情移入しづらいという状況を招くこともありました。

 

一方、本作ではかぐや姫が何者であるかを明確にしています。彼女は自ら望んで地球に降り、結果として帰ることを望んでしまったのでした。
月世界人というものがどういう存在であるかまでは本作でも若干曖昧にされていますが、神仏や天女のような者が彼女を迎えに降りてくることから、彼女の正体もこれに準ずるものなのだろうと察します。
そして、その世界にはかつて地球に降り、月に戻った先人がありました。月の衣を纏うと地球にいたときのことを忘れてしまうため、彼が何を見聞し、何故に月に戻ってきたのかを訊くことはできないものの、彼が時折、地球にいたときの調べを口ずさんでは涙する、その様子を見てかぐや姫は関心を持ちます。
即ち彼女は、自らの意思で地球にやってきたのでした。

 

しかし月では地球のことを忘れてしまうことに宜しく、地球に降りた瞬間に月のことを忘れてしまうため、彼女は「どうして地球に来たのか」を覚えていません。というよりも「降りてきた」ということさえも覚えていません。
かくして、まっさらな状態で地球に生まれ、によって育てられます。成長は驚くほど早く、年しないうちに美しい娘に育っていきます。
彼女は月での出来事を忘れているのみならず、地球の日本には四季があるということさえ知りませんでした。

 

重要なのは、かぐや姫は自ら望んで地球に来ましたが、その際に「すべてを忘れる」ということを受け入れて降りてきたという事実です。
彼女は、周囲が不幸になるその状況に苦しみ、その時点ですでに自らがいることでそうなっている、即ち自らを疫病神のように感じてしまう訳ですが、その上で「月から来たこと」を思い出した瞬間、自らはより強く重く責めるものとなっていきます。何故なら、そのすべては自らが望んだことになってしまうからです。

 

 

こうしたことをかぐや姫に思い起こさせるキーワードとして、劇中に登場するわらべ唄があります。
多少、音楽学に通じておられるならば、これが田舎節都節から成っていることがおわかりになるかもしれません。日本の古典的な民謡にみられる音楽様式で、現代の西洋音楽になぞらえるならば田舎節長調都節短調になります。
わらべ唄の前半は田舎節で、山村で暮らす捨丸達が口ずさんでいました。後半は都節で、かぐや姫は聴いたことがないはずであるにも関わらず、捨丸達も知らないこの後半を知っていました

 

ところで私は、この田舎節都節という概念を小中学生の頃に知ったのですが、現代人で、かつ、横浜で育った幼い私には「都会は明るい」「田舎は暗い」というイメージがあったため、何故に田舎節が長調(明るいメロディー)で都節が短調(寂しげなメロディー)なのかが理解できませんでした。
そんな私にとって、本作のこのわらべ唄の伏線には、頭を殴られたような大きな衝撃を以て受けました。もちろん民俗音楽学音楽史学という観点から言えばナンセンスな話ではありますが、本作のかぐや姫にとって田舎は「生きている」と感じられる楽しいところであり、都は自分を殺しているつらい場所。これを音楽というもので表現しており、見事だと感じさせられました。

 

 

さて、それほどまでにつらい地球であった故にかぐや姫は月に救いを求めてしまいます。
それは即ち、月に帰らねばならなくなる、いうなればパンドラの箱のようなものでした。

 

そのことを思い出したかぐや姫は、しかし地球に残りたいと思うようになります。言うまでもなくこれは矛盾です。
これを単なる別れることへの悲しみと捉えることもできますが、私にはそれ以上の理由があるように感じました。

 

彼女はもともと月の者であり、地球の民、すなわち人間とは異なる存在でした。神仏の類である彼女には「生きる」ということがどういうものかも知らなかったかもしれません。
そして地球で暮らし、「生きる」ということの意味を知りました。それは他人を傷付け、不幸に陥れるつらいものでした。
しかし、野山を駆ける楽しいこともありました。人との出会い等、そうしたことすべてをひっくるめて「生きている」ということなのだと判ったとき、それはただ「つらい」というだけのものでは無くなっていたのかもしれません。
映画『竹取物語』のキャッチコピーが「人間の真ごころ 忘れません…」であったことを思うと、それとは対になっている。そんな気にもさせてくれました。

 

 

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