タルティーン司令部戦略課室長日誌

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2013年07月20日の記事

風立ちぬ

 

『風立ちぬ』を観てきました。

 

風立ちぬ
http://kazetachinu.jp/

 

これはまた、一言では訳せない作品です。
そしてそれ故に、映画ファンには外せない作品であろうとも思いました。

 

本作の内容については紹介記事も多いので今更という感も否めませんが、昭和の航空技術者堀越二郎をモデルとし、その半生を描いたアニメーション映画です。
航空業界に詳しくなくとも、ゼロ戦YS-11の開発者と言えば、それらの飛行機の名を耳にしたことはあるでしょう。

 

ただし本作は伝記ではなく、飽く迄もフィクションです。本作にはキーキャラクターとなるヒロインの里見菜穂子が登場しますが、これも架空の人物であり、堀辰雄の小説『菜穂子』に由来します。監督の宮崎駿自身が言うように、この映画の堀越二郎は、実在した堀越二郎堀辰雄を融合させたアイコンでしかありません。
つまり、描きたいのは堀越二郎という固有の人物では無い。本作の主人公堀越二郎は飽く迄も映画『風立ちぬ』を動かすための狂言回しに過ぎない。それ故に一言では表現できず、また、観る者によって多くの解釈を見出すであろうとも思えたのです。

 

今更説明するまでもなく零式艦上戦闘機、いわゆるゼロ戦旧日本海軍の戦闘機であり兵器です。また、本作の二郎はこの機を設計するまでが描かれます。
しかし戦争を賛美ないし鼓舞する描写も無ければ、反戦的なメッセージも特に込められている訳ではありません。これもまた、この映画で描くべきテーマがそれらではないからであり、重ねて観る者の解釈を多様化させる由縁ともなります。

 

 

ところで監督の宮崎駿と飛行機とは切っても切り離すことのできない、極めて強いつながりを持つテーマです。
『天空の城ラピュタ』では空を飛び天空のラピュタを探さんとする少年と、航空技術によって躍進と翻弄の道を進む者達の冒険活劇が描かれました。映画の冒頭では無数の航空機のスケッチが展開され、くだんの作品の軸となるものが飛行機であることが明示されていました。
『紅の豚』では第一次大戦後の架空世界を舞台とし、戦争や軍隊の忌わしさを封印するために豚化の魔法を自らに掛けたパイロットが主人公でした。カッコよさと、その対局にある醜さを象徴的に描いたファンタジーでもありました
宮崎氏が飛行機というものに対してどのような思いを抱いているのかは判りませんが、ある種の憧れのようなものがあるのは間違いないと私は見ています。そう考えたとき、『風立ちぬ』二郎が実在の堀越二郎ではないということに大きな理由があるように思えてきます。即ち『風立ちぬ』の二郎とは宮崎氏自身であるという解釈です。
勿論、宮崎氏は航空技術者ではありません。また、彼が航空技術者を夢見ていたかどうかも知りません。そういう意味ではなく、ヒコーキというモノに対する、言葉には訳せないある種の思い、情熱。敢えて訳すならば「ロマン」と呼ばれるそれを、二郎というキャラクターを通して具現化したものがこの映画なのではないかというのです。

 

宮崎氏は飛行機好きであることを随所で明らかにしていますし、その一方で反戦家でもありそうした活動もしてきた人物です。
本作の登場人物本庄は自らに対して「矛盾だ」と繰り返しますが、宮崎氏自身、矛盾を抱えているし、それを意識しているのでしょう。
二郎にしても本庄にしても、自らの設計した飛行機が戦争の道具となることを理解しています。そしてそれを肯定はしていません。一方、航空機の設計には犠牲が付きものです。試験飛行にはパイロットが乗り込むことになります。パイロットは設計や製造に関わったエンジニアらを信頼し命を預けて搭乗するわけですが、エンジニアらはパイロットに預ける命はありません。二郎はそれを理解していますし、それ故に懸命であり、微塵の妥協も許していません。
ただ人のパイロットの命を守るべく全てを賭して仕事に掛かりながら、しかしその機械は幾万もの人間を殺す道具になる。これは二郎らが抱えている大いなる矛盾です。かたちは違えども、それは監督宮崎氏自身が抱えるそれとも通ずるものでもあるのです。

 

二郎の設計を、誰もが美しいと讃えました。また、菜穂子は美しい思い出を二郎に残していきました。
『紅の豚』「カッコイイ」ということの両面性を描いているのであれば、本作『風立ちぬ』「美しさ」の両面性を描いている。そのように私は解釈しました。

 

 

さて、本作には多くの実験的要素が含まれています。
例えば興味深いものとして効果音があり、これらは人間の声を以って行われています。

 

私自身、かつてオノマトペというものについて色々と考えてみたことがありました。
マンガの例が顕著ではありますが、日本には擬音語擬態語と呼ばれるものが無数にあり、世界で最も豊かであるとも言われています。
時代を遡れば狂言といった伝統芸能があり、これらはまさに口頭で擬音語や擬態語を演じます。本作のジャンニ・カプローニは狂言師野村萬斎が演じているのですが、ここにはある種の隠喩を感じずにはいられません。

 

また、これはとあるミステリー映画を観ていたときのことなのですが、ドアの音のするシーンがありました。それは誰が聴いてもドアの音ではあるのですが、私は妙な違和感を抱きました。
ドアの音には違いないが、しかしそれはドアの音ではない。何を言っているのかと思われるでしょうが、つまりそれはドアの効果音ではあるものの、実際のドアの音を収録したものでは無いということです。
映画やドラマに限らず、一般に効果音とは「作られたもの」です。それらしい音を擬似的に作って演出を図るのです。だからドアがバタンと閉じたりキィキィと鳴ったりしていても、必ずしも本物のドアの音を収録したものではありません

 

これ自体は別に何の問題もありません。ぶっちゃけ、本物の音を収録することが難しかったり、技術的に可能であっても聴いてみると何故か本物らしくなかったり。そういうことは音響の世界ではごくごくよくあることであり、それ故に擬似的に効果音を作るということになるわけです。
『風立ちぬ』にしても、当時の実際のエンジン音なんて残っていないでしょうし、仮に音源が残っていたとしてもクリアな再生は困難でしょう。宮崎氏は、そうしたものに何の価値があるのかという観点から、似せた効果音やそれらしい効果音を作るという発想を根本的に覆し、人間の声を採用したと述べています。

 

この考え方には、大きく賛否がわかれるものと思います。
しかし、曲がりなりにも音響の世界にも携わったことのある自分としては、これはひとつの答えであるとも見ています。
リアリズムを求めるが故にリアル(現実)では無くなる。これは『風立ちぬ』が訴えるテーマのひとつである「矛盾」でもあります。
無論、口頭によるオノマトペが正解だと言うつもりはありません。しかし矛盾を抱えた演出技法に疑いを以って掛かる態度と、その一案の提示という意味では評価したいと思います。

 

 

この他にもキャストについても、これまでの常識を覆した試みがあります。
本作の主人公二郎の声を演じているのは、宮崎作品でも多くを手掛けている、同じくアニメーション映画監督の庵野秀明です。彼はアニメ監督ではありますが、声優として訓練したことはなく、当然今作が初めてとなります。
声優経験や俳優経験のない人間を起用すること自体はさほど珍しくはありません。そしてそうした作品の中には、初の大抜擢でありながらも見事な演技で魅せる人もいます。その一方で、キャストのネームバリューを求めての起用に対する批判が相次ぐケースも少なくありません。

 

その観点で評したとき、本作に於ける庵野氏の起用には難色や批判を挙げる声もあるだろうと思われます。正直言って他のキャラクターと比較したとき、声の演技はあまりにも拙いからです。
加えて庵野氏『エヴァンゲリオン』シリーズで名を馳せる日本を代表する監督の人であるばかりでなく、宮崎氏の名を世に知らしめた『風の谷のナウシカ』で初陣を飾り、くだんの作品で敵の秘密兵器ともなる巨神兵のすべてを担当した、アニメ界では極めて名の通った人物です。
無名であればネームバリューなぞありませんから、批判はあっても、むしろその未経験さを活かす演出を試みたのだろうという解釈が拡がります。しかし庵野氏はそういう人間では無いため、否定する者は極めて痛烈に批難するだろうと思います。

 

しかし私は概ね好意的に評価することができました。
前述のように、実際、彼の演技は拙いです。他のキャラクターと比べると棒読みのようにさえ思えてきます。
ですが、それ故に二郎のキャラクターが描けているとも言えます。『風立ちぬ』二郎は優れた技術者ではありますが、人間的には平凡であり、かつ、彼自身は自らをヒーローとして動いている訳でもありません。

 

二郎の上司である黒川は感情の激しい人物です。また、二郎の夢に登場するカプローニも想いに熱い人物です。
一際感情の起伏が激しいのは二郎の妹、加代でしょう。自分に対する二郎のいい加減さや配慮のなさに憤り、面と向かうたびに彼にぶつかります。
これに対して二郎は物静かです。しかし感情が無いわけではありません。菜穂子の病状が酷いと知れば、追われる身であることも顧みずに彼女のもとへと急ぎます。
その列車でもなお設計を続ける二郎。しかし涙は止まらず、図面を濡らしていく。こうした二郎の微妙な人間像を演出する上で、映画監督として意図を読み解く能力を有する一方で声優技術の乏しい庵野氏は、宮崎駿の意に沿っていたのだろうと思うのです。

 

 

最後に、本作で特に興味深いと感じたことについてまとめておきたいと思います。
それはアニメーションとしてのビジュアル面での技術についてです。

 

昨今のアニメーション作品ではCGがしばしば用いられます。立体表現や、その動きを描くのであれば、DCGで造形したほうが容易であり、コスト的にも安く、かつきれいに仕上がります。人の手で描くとなると、どうしても歪みが生じてしまうからです。
しかし本作ではそれらを敢えてセルによって行っています。これにより、劇中の昭和という世界観を醸しだしていますし、同時に二郎菜穂子の心理描写に対して無用なノイズを立てずに映し出すことに成功しているとも思えます。

 

そしてその一方で目を見張ることとなったものが光の表現です。
物体の質感を左右するものとして、光の描き方が第一に挙げられることは、絵やCGに一度でも触れることとなった者であれば知らない人はいないでしょう。
そしてこれらは、その物体の位置や動き、さらには光源の向きや変化によって常に変わってゆき、それが動画となったときのリアリティに繋がってゆきます。

 

本作ではこうした光の反射や光沢、或いは影といった描写を繊細に表現しています。CGではなくセルゆえにできる、豊かな描き方であると、私は観ていて息を飲みました。
CG全盛であるアニメーションの時代に、それすらも疑問視した態度で臨み、かつ、それ故に優れた演出を提示する。こうしたところも本作の魅力でしょう。

 

エンドロールも昨今では珍しい手書き文字です。それも、まるで方眼紙に向かって懸命丁寧に書いたような、整った文字です。
しかしそうしたことは、エンドロールのクレジットにもパンフレットのどこにも書かれていません。

 

ストーリーを追うだけではなく、そのコマコマに、「美しい矛盾」を背負う“彼”が何を込めようとしたのか
それを読み解くことこそが、本作の楽しみ方なのかもしれません。

 

 

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