タルティーン司令部戦略課室長日誌

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2013年03月21日の記事

クラウド アトラス

 

『クラウド アトラス』を観てきました。

 

クラウド アトラス
http://wwws.warnerbros.co.jp/cloudatlas/index.html
http://wwws.warnerbros.co.jp/cloudatlas/main/

 

一言では訳しきれない複雑に絡み合った映画です。
映画紹介や原作の紹介記事等で御存知の方もおられるかもしれませんが、時代の異なるつの舞台をザッピングしつつ、いわゆるグランドホテル形式で物語が進行していきます。

 

「グランドホテル形式って?

 

映画等の構成スタイルをあらわす用語で、主人公を1人に限定せず、複数の登場人物の視点を転々と変えつつ物語が展開されていく方式をさします。
本作の場合、184919361973201221442321というつの時代の物語が同時に並行して進んでいきます。

 

映画ジャンルとしても、アクションあり、サスペンスあり、ヴァイオレンスあり、SFありというゴッタ煮ぶり。
さらに音楽映画でもあり、社会派映画でもあり、解釈によっては宗教映画という見方をする人もいるかもしれません。

 

上映時間は約時間にものぼる長編映画。
ですが、展開のテンポが良く、メリハリもあるので飽きさせません。かつ、これだけの長い尺でありながら、観ていてさほど疲れさせないというのも構成の良さなのだと思います。

 

アメリカではR指定、日本ではPG12ですが、人によってはそれでもなお抵抗を感じる方がいるかもしれません。

 

「年齢制限に否定的なシオンさんが
 そんなことを言うなんて珍しいね。
 そんなに過激な描写があるの?

 

うーん…、それ自体にも否定はしないのですが、先述のようにひじょうに雑多な要素を盛り込んだ作品なので、解釈が多岐にわかれそうだという気もしたのです。
いわゆるベッドシーンもでてきますし、残虐描写もあります。
そのベッドシーンにしても、例えば「1936 Scotland / 1936年スコットランド 幻の名曲の誕生秘話」の主人公はゲイです。
残虐描写にしても、「2321 Hawaii / 2321年ハワイ 崩壊後の地球の行方」にはコナ族という人喰い族が登場します。ちなみにややネタバレになりますが、カニバリズムは他の時代でもテーマとして浮上します。

 

さらに、やはり前述のように政治的な内容や、宗教的な内容も出てきます。
特定のイデオロギー宗教を扱ったものではないのですが、そこに敷かれているテーマは普遍的なものと言えます。
そして、これが複雑であるのは、否定と肯定の両面を描いているため、その解釈によって大きく態度が異なるであろうからです。例えば信仰対象の否定と、信仰対象を受け入れること。この両方を同時に描きます。これを宗教否定と読むか神の(或いは偶像崇拝の)肯定ととるか

 

じつのところ、本作はそうした複雑な内容を盛り込みながら、答えを出していません。解釈を多分に観客個々に委ねているところが大きいのです。
加えてハッピーエンドでもなければバッドエンドでもありません。つの時代はそれぞれがリンクしながらも独立した流れを持っており、個別の結末を迎えます。ヴァイオレンス描写ということで薄々お気付きかもしれませんが、いずれの時代であっても人が死にます。時代によっては主人公さえも死にます。本当の意味での完全なる幸福は、どこにもありません。しかし同時に、完全などん底もありません。
ザッピングを繰り返しながら、メタな視点でどう解釈するか。ひじょうに哲学的な要素を持つ映画作品なのです。

 

 

全体を貫く大きなテーマとして「永劫回帰」「輪廻転生」があります。基本的にキリスト教にはこうした考え方は無いので、このようなテーマを扱った作品というのは珍しいと感じます。
永劫回帰」は本来ニーチェ哲学にある思想ですが、仏教に由来する言葉が浸透している日本人には馴染み深いものです。前世と今と来世。こうした縦の繋がりと、それぞれの「生」に於ける人と人とのいわゆる横の繋がり。

 

余談ながらこの世界観、構造は、幸福の科学でしばしば語られるものでもあります。映画の製作費的規模等は別にしても、『ファイナル・ジャッジメント』『神秘の法』がここまで深い内容で描かれていたならば、成功していたかもしれませんね。あまりにも薄っぺらい感がありました。

 

 

タイトルの「クラウドアトラス」とは劇中に登場する六重奏交響曲のこと。
監督自らが作曲していることもあって、音楽への造詣が深く、そうした部分は劇中にも音楽用語として現れます。いわばテーマ曲でもあり、そう解釈したとき、本作は音楽映画となります。
それは、音楽に通じていない人には聴き慣れない音階名や「採譜」(一般には「耳コピ」という語が使われる)といった言葉もありますが、「騒音と音楽の垣根など幻想だ」、この台詞は現代音楽への造詣が無いとわかりづらいかもしれませんね。

 

さて、これは現実の話。1952年、アメリカのジョン・ケージは「33」を作曲しました。知っている人は知っているこの曲は、まったく楽器の音を鳴らさないピアノ曲です。
ケージは「観客や会場のノイズも音楽である」という観点からこの曲を作ったと言われており、現代音楽に於ける「偶然性の音楽」の代表例として挙げられています。

 

「騒音と音楽の垣根など幻想だ」、それはケージの作から遡ること20年ほど前にスコットランドの無名作曲家が口にした言葉。
本作の中で「クラウドアトラス」は幻の名曲として扱われていますが、早過ぎたこの天才は既にこのとき、偶然性の音楽に気付いていたのです。
音楽学的解釈で解くならば、ここで騒音の音楽性について触れることそれ自体が“幻の名曲”というテーマ(この語も音楽用語!)の隠喩であると言えるでしょう。

 

 

改めて本作『クラウド アトラス』の舞台について整理します。
繰り返すように、つの時代をザッピングしつつ物語が進み、それぞれ、次のようなものとなっています。

 

 ・1849 The South Pacific
  1849年 南太平洋諸島 ─ 数奇な航海物語 ─

 

 ・1936 Scotland
  1936年 スコットランド ─ 幻の名曲の誕生秘話 ─

 

 ・1973 San Francisco
  1973年 サンフランシスコ ─ 原子力発電所の恐るべき陰謀 ─

 

 ・2012 London
  2012年 ロンドン ─ 平凡な編集者の類稀な冒険 ─

 

 ・2144 Neo seoul
  2144年 ネオ・ソウル ─ クローン少女の革命 ─

 

 ・2321 Hawaii
  2321年 ハワイ ─ 崩壊後の地球の行方 ─

 

まず、それぞれの時代の、それぞれ異なる立場の登場人物を、同じキャストが演じます
例えばトム・ハンクス(Tom Hanks)1849では弁護士である主人公アダム・ユージングの病を診る船医ヘンリー・グースを演じます。1936では作曲家である主人公ロバート・フロビシャーが泊まる宿の支配人を演じます。1973では女性記者である主人公ルイサ・レイの取材対象の発電所所員を演じ、2012では編集者である主人公ティモシー・カベンディッシュを担当とする作家ダーモット・ホギンスを演じます。2144では作中映画『カベンディッシュの大災難』の主演俳優を演じ、2321では崩壊後の生き残りの末裔である主人公ザックリーを演じます。
勘の良い方はおわかりでしょう。このつの時代のそれぞれの人物は転生した同一(?)人物になります。トム・ハンクスに限らず、他の俳優も同様にそれぞれの時代で異なるキャラクターを演じており、それらが転生という縦の繋がりを持つ存在ということを示唆しています。

 

また、それぞれの時代のそれぞれの事件は、微妙な繋がりを持っています。
1849の主人公アダム・ユージングが著した航海記を1936の主人公ロバート・フロビシャーが読んでおり、ロバートは偽名としてユージングを名乗ります。
そんな1936ロバートは愛する同性のルーファス・シックススミスに手紙を残しますが、そのルーファス37年後の1973、物理学者となっており、原子力発電所に従事しています。
1973の主人公ルイサ・レイシックススミスからのリークで原子力発電所の秘密に介入することとなり事件に巻き込まれますが、彼女を慕う推理好きの少年ハビエル・ゴメスは後年、この事件をもとに小説を書き、その原稿が2012の主人公、編集者ティモシー・カベンディシュの手元に行きます。
そんな2012カベンディシュは金を無心したことから施設に監禁され、そこからの脱出を図ります。彼は後年、これを小説にし、映画化されます。2144の主人公でウェイトレスとして作られたクローンソンミ451は、その映画を観ることで自らが監禁されている身であることに気付きます。
クローンの自我の芽生えは、即ちクローンの暴走でした。成り行きではあったものの革命家となったソンミ451は神格化され、その言葉は経典のように纏められ、2321の主人公ザックリーたちの部族にとっては崇める存在「ソンミ様」となっています。

 

さらに、それぞれの時代には似通った場面が登場し、シンクロしていきます。
例えば2144の場面でソンミ451と、彼女を連れて脱出を図るレジスタンスの科学武官ヘジュ・チャンは、高層ビルに渡した橋で銃撃を受け、チャンは転落します。
これと被るかたちで1849、密航した黒人オトゥアは自らの操船術をアピールするために帆を張る際に船長らから銃撃を受け、転落の危機となります。

 

こうしたザッピングを何度も繰り返しながら、物語は進みます。

 

 

彷彿するは松本零士の世界観。
彼のマンガ作品にはよく似た顔立ちをしたキャラクターが、いわゆるスターシステムのように他の作品にも登場します。松本零士氏が言うには、これは同一世界の異なる時間軸にいる同一の存在だそうで、彼の作品すべてを通じてリンクしているとされています。
また、本作の「2144年 ネオ・ソウル」は松本零士『銀河鉄道999もっと生々しくしたかと思わせるような話です。
『銀河鉄道999』では富裕層と貧困層が異なる地で生活し、富裕層は機械化、貧困層はスラムでの暮らしを強いられています。また、999とはヒトを機械という社会の部品として生成する工場へと送る“貨車”でした。
本作の2144も富裕層の暮らす世界とスラムとがあり、また、クローンとは人体リサイクル工場の産物でした。12ヶ年で年季明けとなるクローンの待つものは再処理であり、殺されて肉塊となった再処理工場のクローン達の姿を見たソンミ451は衝撃を受けます。

 

もっとも、本作では別の時代を生きる同じ存在は、顔立ちは異なりますし、性別さえ違うことがあります。
劇中、同一(?)人物とわかるキャラクターもありますが、まるで違う風体となるものもあり、エンドロールでそれらは明かされます。
単なるキャスト紹介ではなく、予備知識なしに本作を観た人に対する解説的な役割も担った演出でしょう。

 

マンガといえば、2012での施設からの脱出劇には、えんどコイチ『死神くん』にある「老人たちの反乱」を思い出しました。老人たちが立ち上がり、クルマを暴走させて飛び出すシーンはそのまんまといった感じでした。

 

 

どの時代に於いても主従関係や上下関係が存在します。それも、虐げる者と虐げられる者、屈服させる者と屈服させられる者という構図の関係です。
そして、いずれの時代もその構図を打ち破ろうとする者と保守しようとする者があり、打ち破るという行動が完全に達成されることはありません。

 

これと並行して、時代を貫く同一(?)人物という群像を以って、変われない人間変わることができる人間というつの存在が描かれています。
どの時代にあっても悪役を演じるキャストがある一方で、立場の変化していくキャスト。
その中でも際立っているのがトム・ハンクスであり、彼は全編を通しての語り部でもあります。18491936では自らのエゴイズムの為ならば何でもするという、いわば悪人的存在ですが、それが次第に変化してゆきます。
特に面白いのは2012で殺人を犯す小説家のホギンズを演じ、その因果によって浮き沈みを経た担当編集者ベンディッシュが書いた自叙伝的小説。2144にはその映画が登場し、劇中映画のカベンディッシュ役を演じているところでしょう。

 

 

革命クーデター構図を打ち破ろうとする行動。これは果たして意味のあるものなのか、それとも否か。
前述のように、それぞれの時代に於いて、それは必ずしも成功しているとは言い難いでしょう。1849のラストで描かれる奴隷解放。しかし奴隷とは異なるシステムとして2144には階層やクローンが存在していました。繰り返されている、ある種の概念です。
そして、その2144でもクーデターを起こしたものの敗戦。ソンミ451も処刑されて幕を閉じます。

 

一方で、それぞれは次の時代に何某かの影響を与えています。それを意義と見る者もいるでしょうし、マスターベーションであると言う者もあるでしょう。
恐らくは前者は変わることができる人間であるかもしれず、後者は変われない人間なのかもしれません。
何も変わらないのであれば現状を受け入れることが幸せだというのも、ある意味では哲学として正解でしょう。また、それを打ち破ること自体がタブーであると考える者もいるでしょう。

 

2321での宗教に対する信奉と疑問こそ、そうした考え方への最終的な具現と言えます。
ソンミは神ではなく、神の使いですら無い。“昔の人”は彼女を信仰の対象にしていたわけでさえ無い。使者メロニムはそう告げますが、ザックリーはそれをすぐには受け入れられません。
私達が、宗教に限らずイデオロギーにせよバイアスにせよ、そうであると信じているもの。そしてそれを疑うはタブーとしてしまう何某かの意識。それこそがオールド・ジョージーだと気付けるか否か。そして、その解釈を受け入れられるか否か。
ここに、本作への解釈をどう読むかの分岐点があるように感じます

 

仮にザックリーオールド・ジョージーの声に耳を貸していたとしたならば、どうであったでしょうか。
メロニムの言を否定し、メロニムを殺したとします。それによりソンミへの信仰は守られ、恐らくはそれでおしまいです。
地球外に出るということは無くなりますが、そもそもザックリーには地球外へのコンタクト等という概念が無いのですから何がどうなるわけでもありません。
メロニムの言うことを受け入れ、ソンミ信仰を断ち切ってコナ族の寝首を掻いたザックリーが幸福を得たかどうかは彼のみぞ知るですが、もしメロニムを否定し、コナ族の手に倒れていたとしても、“そのザックリー”は“他のザックリー”を知らないのですから、いずれが幸福であるか、とか、ソンミが真か偽かという概念はナンセンスなんですね。

 

ソンミ信仰を“フィクションの宗教”、要するに自分の信仰するものとは別のものという視点で捉えているならばともかく、自らの信仰も同義のマクガフィンであると読み説いたのであれば、その人は到底受け入れがたいと感じるかもしれません。

 

 

受け入れがたいと言えば。
1936の主人公はゲイでした。「クラウドアトラス六重奏」を完成させたフロビシャーシックススミスを眺めるだけに留め、自害をはかります。今やフロビシャーは追われる身であり、シックススミスに及ぶのを避けると同時にシックススミスへの贖罪でもあったのです。
銃声を聞いたシックススミスは彼の部屋へと急ぎますが、そこには愛するフロビシャーの変わり果てた姿があり、シックススミスは血まみれになった物言わぬ彼の亡骸を抱いて号泣しました。
ゲイであったり、或いはいわゆる腐属性であれば感情移入もできるであろうこの1936のラストシーンですが、さもなければ受け入れがたいのではないか。そんな気がしました。

 

 

もうひとつ。私が受け入れがたかったもの。
映画ではなく、劇場の雰囲気と言ったほうがよいかもしれません。
本作にはジョークが何か所か登場し、邦訳字幕もなかなか気が利いているのですが、他の観客のリアクションがあまりにも希薄なこと。
私は結構面白いと思ったものですけれどもね。特に“ニャンニャン”には笑えましたが。

 

 

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