タルティーン司令部戦略課室長日誌

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2012年11月05日の記事

のぼうの城

 

『のぼうの城』を観てきました。

 

のぼうの城
http://nobou-movie.jp/

 

一言で感想を言うならば「原哲夫的世界を実写にしたらこうなるという感じ?」でしょうか。

 

それって『花の慶次』のことを言っているの?

 

その解釈は半分正解で、半分間違です。
『花の慶次』前田慶次『のぼうの城』成田長親は、どちらもかぶき者たるキャラクターではありますが、両者には大きな違いがあります。
慶次は普段からのかぶき者。まぁおよそ「かぶき者」と言えば、ああいうキャラを指して呼ぶでしょう。
これに対して長親は、タイトルが示す通り「でくのぼう」です。「バカ殿様」という表現でもいい。

 

この辺り、本作では極めてマンガ的に描いており、長親がボケるときのセリフは大抵、現代語。予告篇にもあるように「そんなわけないでしょ?」とか「みんな!ごめーーんっっ!!」とか、とにかく笑わせてくれます。

 

「戦うと言うたのは儂の為か?」「そんなわけないでしょ?」

 

「戦にしてしもうた…! みんな…! ごめーーんっっ!!」

 

その一方でケレン味あふれる豪快な戦闘シーンが炸裂し、巨漢・柴崎和泉守は槍を片手に豊臣兵を串刺しにして振り回したり、多数の兵士を押し倒したりという戦いを見せてくれます。

 

柴崎和泉守の撮影シーン。


こうした大胆なマンガ的演出に、原哲夫の世界を感じたのでした。

 

 

以下、予告篇以外のネタバレを含みます。

 

 

映画の作りとしては非常に丁寧だと思います。
時間25分という尺はやや冗長にも感じ、とくに序盤はタレ気味な印象も受けましたが、中盤からはテンポも良く、先述のボケる場面では観客全体が笑っていましたし、掴みができている証拠でしょう。特に終盤の長親田楽踊りを舞うシーンは、もしこの映画がインドで上映されるのであれば観客揃って踊りだすのではないかと思えるようなテンションを感じました。

 

本作の最大の見せ場でもある田楽踊り。この振付自体も成田長親を演じる野村萬斎によるもの。

 

また、つい見逃してしまいそうな場面ですが、戦にしてしまったことを長親領民に謝り泣き崩れるシーン。長親の様子に領民たちはエールを送りますが…、

 

「エイカ、エイカ、オー! エイカ、エイカ、オー!」


…近い場所にいる群衆と、遠い場所にいる群衆とでは、動きにズレがあるんですね。これ、自然です。声もちゃんとズレていて、リアルな感じを作っています。ちょっとしたところではありますが、こういうところに丁寧さが現れていると思います。

 

 

本作の面白さは、おそらく「人間の見えない本質」にあるような気がします。
人物が化けていく様子を描いた物語はよく見られますが、そうした作品の多くは、まるで異なるキャラクターへと成長していく話です。
しかし本作は違います。キャラクターは何も変わっていない
主人公・成田長親のバカ殿っぷりは最初も最後も変わらない。ただ、そのバカ殿のバカ殿たる本質がどういう意味へと映るのか(「移るのか」では無い)、それを描いています。

 

史実がどうであったのかは判りませんが、少なくとも本作では、この水攻めに城が耐えたのは長親が「愛すべきバカ」であったからに他なりません。
家臣には「ガキかてめえは!」と思われながらも、領民からは「のぼう様」として愛される。それが絶体絶命の戦の場となったとき、領民の言動を受けて家臣は長親の本質に気付き始め、揺れ動かされ、一体となっていく。さらにその一体感は敵軍である豊臣方の兵士や周囲の村人さえも巻き込んでいく。

 

これは長親だけではなく、他の登場人物にも適用されています。
成田家家老の酒巻靱負は「毘沙門天の化身」を自称する、いわば戦略のプロを名乗っている青年。しかし剣の腕はからっきしで周囲からはホラ吹き扱いをされています。
確かに先述の和泉守と比べたら話にならない軟弱武士なのでしょう。それ自体は最後まで変わらない。レベルアップをしているわけではありません。
しかし、その和泉守がこれはかなわぬと逃走しながら「(お前の戦術とやらを)見せてみろ!」と靱負に叫ぶと…、

 

 

和泉守を追い駆けて突入してきた敵軍めがけて火矢を放つ靱負
じつは敵軍の突入する先は油だまりが拵えてあり、それに足をすくわれて転がる敵兵たち。そこに火矢が飛んでくるのですから油は爆発炎上。撤退を余儀なくされる豊臣方。しかもその爆発は豊臣方の軍勢万からも見えるもの。単に突入してきた敵を撃退しただけでなく、相手全体に対して戦意を揺すぶるに十二分な効果をもたらせました。
矢が命中するかどうかなんて関係ない。つまり靱負自身の戦闘能力は何も変わらない。ただ、この場になって靱負の本質が見えるようになった、それだけなんですね。

 

この描き方は味方側に留まらず、豊臣方のキャラクターでも同じ。
映画冒頭では備中高松城の戦いが描かれます。豊臣秀吉は「決壊させよーっ!!」と声を上げ、ドドドッと轟く大水を背に高笑い。

 

豊臣秀吉 in 備中高松城の戦い。

 

これを見たミーハーな石田三成は、同じことをしたくてたまらなくなります。この辺りもマンガ的な演出ではありますが、しかし高松城の水攻め忍城の水攻めも史実ですし、そうしたものがあったとしても不思議ではありません。
でまぁ、やってみるわけですね。

 

「決壊させよーっ!」

 

お前、それがやりたかっただけだろ、三成クン。そう思わせるシーンです。

 

こうして見ると、この映画ってバカばかり登場するんですね。そんな中での一際バカな存在が我らが成田長親。それも誰からも愛されるバカという。
そうしたバカ達が、そのバカっぷりの本質を見せる場面普段は見えていない人間の本質。それこそが本作のテーマなのではないかと思えたのです。

 

 

 

さて。
現実の成田長親が本当に誰からも愛される大バカであったかどうかはさておき、今の世の中を動かす者の中にそういう人物はいるだろうかと考えたとき、否、世界を見渡しても人もいないのではという気がしてきました。
本作の水攻めシーンが津波を思わせるために公開延期となっていたことは報じられている話ですが、ではその震災という絶対的緊急事態に際して人々をひとつにまとめられるような魅力を持った人物が果たしていたのかどうか。或いは、本質を見出せる人物がいたのかどうか。
恐らく、時の首相・菅直人は一生懸命になっていたのだと思う。賛否はあるでしょうが、真面目な人なのだと私は思います。
魅力があったかどうかは何とも言えない。これに関して言えば、長親にしても豊臣方から見れば敵であるわけで、最初から親近感を抱けというほうが無理でしょう。菅氏民主党政権に批判的な立場の人もいる。そうした人に対しては土台無理な話です。
ですが、そんな相手に対しても引き寄せるだけの何かがあったならば。劇中の長親のように、豊臣方の兵士達をさえも巻き込んで舞わせてしまう、そういう何かが。

 

領民の前で「戦にしてしもうた…! みんな…! ごめーーんっっ!!」と泣き崩れながら謝る長親
普通だったらとんでもない話です。それまでは戦を回避すると言っていたのに、突然交戦することになったと告知され、しかもそれがこともあろうに信頼を寄せていた存在から告げられる。
この場面に、ふと昭和天皇詔勅を思いました。軍部も内閣もまるで信用してはいないが天皇には敬意を払う。そんな中でその天皇が、ぶっちゃけ「戦争に負けたぞ」と言うのだから、これは如何や。
これを好意的に解釈するのであれば、或いは戦後の日本が立ち直っていったのは、昭和天皇が“長親”だったからなのかもしれません

 

翻ってイラク戦争
さんざん戦争を回避しようとしたにも関わらず、日本も味方に付けたアメリカに攻撃を吹っ掛けられることになってしまったサッダーム・フセイン
彼が民衆に「アフワン・ジッダン、リクルシャハサ(みんなごめん)」と言ったかどうかは知りませんが、交戦せざるを得なくなったことに心身的に打ち崩れたであろうことは想像に難くありません。
ラウ・シャハサ・ハッブーフ(もし彼が愛される者であったならば)…、或いは結果は違っていたかもしれません。
ワラーキン(しかし)…、それは劇中で長親を射殺したときに呟かれる言葉「これでこの戦、泥沼になったぞ…」に然り、今の日本がどうなっていたやも判りません。
フセインが“長親”では無かったことを吉と読むか凶と読むか。社会学的な見地から、大いに興味のあるところです。

 

 

 

ところで。

 

ワーナーマイカルでは『のぼうの城』にちなんで、こんな商品を出していました。

 

のぼうの塩ポップコーン

 

バカで面白い映画にはバカでおいしいグッズで。
こちらの感想記事も追って書きたいと思います。

 

 

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