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漢字検定についてA

漢字検定について2回目です。
この検定を受検しても決して文章を書く能力が向上することはないという内容が1回目の内容でした。
今回はその理由を具体的に問題を見ながら確認していきます。
前回紹介した理由は下記の4つでした。

@問題作成者が無知で間違いだらけ
A文語文で使用する言葉を現代の口語文で無理やり使用しているので、非常におかしなことになっている
B問題作成者が字やことばの持つ雰囲気、使いどころを知らないためキテレツな文章が出来上がっている
Cこの検定を受けても漢字を正しく使いこなすどころか、文章を書く能力が上達することはあり得ないと断言されています。

まず、@の作成者の無知について実際の問題を見ていきます。

『飲みすぎて路上でスイタイをさらした。』

解答は酔態。
ところがこの問題文は日本語として非常におかしな文章です。

正しい使い方は例えば↓
人前で酔態をさらした』ドラッグすると字が出ます。


『飲みすぎて路上でスイタイをさらした。』のどこがおかしいのかというと、飲みすぎてと酔態は同じことを繰り返しています。
他の例で言えば、『女の婦人』や『腹を切って切腹』と同じ使われ方をしているのです。
『乱酔して酩酊した』のようなもので悪文の見本とのことです。

もう1つ。太字の読み方を答える問題。
『旅寝の埴生の宿を思い出す』

正解ははにゅう(はにふ)

これも問題文の使い方がおかしいと指摘されています。
正しい例は↓
旅寝のおんぼろ宿を思い出す』👈ドラッグ

埴生の宿とはおんぼろの家の意味で、用いる場としては主として自分の家を謙遜して言う場合に使うとのこと。

確かに歌にもありますね。埴生の宿も我が宿って。
旅寝のという修飾語が付いているということは、作成者は旅で泊まったおんぼろ宿を思い出すと言っているのですから、埴生の宿の宿を旅館と勘違いされています。
古めかしい言葉の字面だけを拾って現代文に使用するからこのような間違いをおかすとのことです。




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漢字検定について@

『漢字検定のアホらしさ』を読む。
作者の方は東大大学院を卒業。中国語・中国文学が専門の方です。

漢字検定に関しては聞いたことがある人が多数だと思います。
正式には漢字能力検定と言います。
それを略して漢字検定、更に省略し漢検と言ったりもします。

1級〜10級までの12段階に分かれています。
なぜ10級までなのに12段階かというと、準2級と準1級があるからです。

私が2級を受検したH19年の年間志願者数は270万人。
ピークは翌年のH20年で289万人。
近年は少し落ち着いたもののそれでもH28年は年間200万人が受検するという、マンモス検定です。

漢字検定に関するこの本の作者の見解は以下のような趣旨となっています。

@問題作成者が無知で間違いだらけ
A文語文で使用する言葉を現代の口語文で無理やり使用しているので、非常におかしなことになっている
B問題作成者が字やことばの持つ雰囲気、使いどころを知らないためキテレツな文章が出来上がっている
Cこの検定を受けても漢字を正しく使いこなすどころか、文章を書く能力が上達することはあり得ないと断言されています。

その具体例を何回かに分けて紹介していきます。



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詰将棋918


手詰
ヒント・・守りの竜筋を外す

手数とヒントはドラッグで見られます


↑誰だか分かるかな?

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詰将棋0917

久しぶりに詰将棋を解いてみました。
盤面9枚以内ととっつきやすいです。中田先生の作品です。



手詰
ヒント・・5筋の銀が役に立つ

手数とヒントはドラッグで見られます

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文学作品の楽しみ方

言葉の裏側を読み解くことによって、文学作品の奥に秘められた真相に触れるための方法を教えてくれる一風変わった本に出会いました。
読書好きの方にはおススメの1冊です。
筆者とその教え子の中学生とのやり取りから文学作品の真相に迫る作りになっています。

夏目漱石や森鴎外、芥川龍之介の作品や、オバマ前大統領のスピーチや坂本龍馬の姉に宛てた手紙に関する真相読みも紹介されています。

言葉を注意深く読み解いていけば、読みは客観的なものであるということを教えてくれています。

巻末には筆者の大学時代の興味深いエピソードで日本語とは文法が非常に特殊な言語であることを紹介しています。

【本文より】
国語は(特に「現代文」は)、生徒たちから敬遠されやすい科目である。つかみどころがない。あいまいだ。授業によって、国語の力って本当につくのだろうか。勉強の仕方がわからない。 
 ……等々、「とらえどころがない」というマイナスイメージで語られることが多い。なんとなくあやしい科目だと思われているふしもある。 
 大人になってからも、国語についてマイナスイメージを持ち続けている人をわたしはたくさん知っている。その根っこに、読みは主観的なものなのか、客観的なものなのか、という疑問に明確な答えがあたえられていないことがあると思うのである。 
 さて、わたしの問いかけに対する生徒たち(特に中学生)の反応は劇的だ。 
 五十人のクラスで、四十人近くが、「読みは主観的なものだ」の方に手をあげる。 
 「読みは客観的なものだ」に手をあげる生徒は、わずかに三、四名である。つまり多くの生徒が、文学作品を読むときには、人ぞれぞれの解釈があってよいはずだと思っているのだ。 
 そこで、次のように語りかける。 
 「なぜ、みんなが国語があまり好きでないのかという理由がこれではっきりわかった。みんなのなかの多くの人は、読みは主観的で自由なものだと思っている。ところが、試験の点数は客観的なものだ。八十点の答案は六十点の答案より二十点だけ点がよい、というのは客観的事実だ。 
 そこでみんなは漠然とこう感じる。主観的な読みを客観的な試験によって評価するのはおかしいのではないか。国語の試験というのはインチキじゃないのか。国語の授業もなんかインチキくさい」 
 このように語りかけると、多くの子どもが強くうなずく。 
 「こんな疑問を感じたことのある人?」 
と聞くと、たくさんの手があがる。そこで、 
 「この問題に、先生なりに答えを出しておきたい。先生は、こう考えています」 
と、話を続ける。

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